大正末期〜昭和の北山田から 第51回 都筑区の歴史を紐解く 文・絵 男全(おまた)冨雄(『望郷』から引用)
戦後【3】
全部出てしまった子宮を少しづつ腹の中に入れてほっとすると、また出てしまい、裸になって血だらけになりながら、治療した。
お産の時、逆さ子は子宮の中まで片手を入れて、子牛を子宮の中で反転させるのは大変だった。お産で死んだ乳牛が多かった。
三十七年頃、豪州からジャージー種の小型の赤茶の乳牛が導入されたが、粗食に耐え脂肪分の多い乳が出たが、乳量が少ないので、あまり繁殖しなかった。
『北山田の夜空は空気がきれいなので月が澄んでいた』▽盆休み 澄みたる月に 吸い込まれ▽盆の月 我れ一人では 惜しくなり▽盆提灯 知らぬ顔して 踊りおり▽空模様 首筋痛し 盆踊り▽浴衣着に 戸惑う視線 盆踊り▽盆踊り 売店気になる 空模様▽あれやこれ それそれ主役の 盆踊り▽旧盆の 月に現世 語りかけ
洪水
上流に、すみれが丘の造成が始まってから、田圃は毎年洪水に見舞われ全滅した。
ようやく収穫と思うと、造成の赤土が流れ、特に道路下の水田は砂利と赤土で復帰がむずかしかった。刈り取った稲が流されても、開発業者から何の補償もなかった。
川も赤土で埋まり、鰻、カタッケ、八目鰻、蟹が全滅してしまった。
農業に暗雲
三十八年頃、開発業者から、重代、神無谷戸まで開発したい話があり、拒否した。
四十二年、港北ニュータウン開発の話があり、連日、公民館で論議が交わされた。
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