大正末期〜昭和の北山田から 第61回 都筑区の歴史を紐解く 文・絵 男全(おまた)冨雄(『望郷』から引用)
生活対策【4】
富士組で四名合格、翌年一名合格してようやく基盤が整い、その後一級施工管理士も増員、技術面で大手建設会社の支援を受けながら、公団の指導と市のアドバイスにより安定した生活対策になっていった。
重機はリースを主体に、中型バックホー一台購入、何よりもオペレーターが自前なのがよかった。作業着、靴は会社負担になっていった。大事なのは子供たちに働きに出る親の背中を見せることで、子供を塾に通わせるより教育になると、話し合った。
事務所も私宅が仮移転したので、同じ場所に仮移転し、その後、川崎市境に私の換地を受け、銀行から借入金をして事務所を建て、倉庫をセットし営業している。難点は、社員全員が地権利者であり、それぞれに家庭では経営者で、使われた経験がなく、当初は心配した。仲間意識が強く、意見の対立が時にはあったが、愛社精神旺盛で切り抜け、今日まで継続してきている。
この間、家庭の都合により四名の方が退社したが、ニュータウン造成工事の終息に伴い、造園施工管理業務をニュータウン内に求め、専門の車両機器を導入、民間工事も手掛けて働いている。
最初は生活対策ということで、各地区で、それぞれ八社の会社を設立したが、農家は個々の生活が基盤なため、組織で働くことへのためらいと、意見の対立が収束できず、設立まもなく富士組以外は解散してしまった。
一時期、順調に運営していると、僻み、妬み、侮蔑の眼差しを感じたが、我慢と忍耐で二十年が経過しようとしている。生活対策の富士組については、前にもふれたが、生涯のなかで物資両面の支援について非難もあるが、成長を見て自己満足している。
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