とつか歴史探訪 ■〜旧東海道・戸塚宿を訪ねる〜第59話 〜宝永の富士山大噴火と砂降り〜
元禄の大地震のあった4年後、宝永4年(1707)長らく静穏を保ってきた富士山が大噴火を起こしました。噴火で10億立方メートルに及ぶ噴出物が上空2万メートルまで吹き上げられ、東へ流れて関東南部一帯の広い地域に降りました。火山灰というよりは砂が主で、各地の古文書にも「砂降り」と記されています。
冬のさなか麦作はほぼ全滅し、春の作物植え付けには砂を取り除かなければなりませんが、作業は困難を極めました。戸塚宿ほか鎌倉郡の村々に出された幕府の「申渡し」には、「村中の百姓は精を出して砂を取り除き山や野などの空き地に捨てること、女や子供も動員して少しでも早く行うこと、村に捨て場所がないときは隣村に捨てたりせず田畑の隅へ片付けること」などと記されています。
砂を捨てた場所は「砂置場」として後々まで年貢関係の文書などに記載され、幕末まで残ったところも少なくありません。現在所々で見かける「富士塚」、「富士山」と呼ばれる小山の多くは、この時の砂置場の名残と考えられています。噴火時の様子について、お隣泉区観音寺の記録よると、11月23日午前8時頃大きな音がして戸障子が響き真っ暗になった。始め白い軽石が降り、それが砂に変わって12月8日まで降り続き、7寸(約21cm)ほどの厚さまで積もったということです。
同様の噴火が今起こったと考えると、複雑なインフラに支えられた現代社会に及ぼす影響は想像を絶するものがあります。
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4月18日