戸塚区・泉区 コラム
公開日:2025.11.27
第120話 江戸時代の過酷マラソン〜サムライ東海道を走る〜
とつか歴史探訪
平和な江戸時代になっても武士には様々な武芸の鍛錬が求められました。剣術や弓術のほかに、基礎体力を養うため「遠足(とおあし)」と称する長距離走も行われました。
安政2(1855)年に安中藩(現群馬県内)で藩士約100人が碓氷峠を走った「安政遠足」が有名ですが、それ以前の江戸にも寛政3(1791)年に催された「寛政遠足」の記録が残っています。朝七ツ時(午前4時頃)に江戸城を出発して東海道を走り、戸塚から鎌倉へ向かい、鶴岡八幡宮で折り返して江戸城に戻りました。
往復で100Km余り。参加したのは鷹匠、鳥見という将軍の鷹狩に関わる職務の武士9人でした。戸塚宿では江戸方見付を通った後市街には入らず、吉田の大橋手前で東海道と岐れ、広重の「東海道五十三次之内・戸塚」に描かれた道標に見える「左りかまくら道」を走りました。
沿道の宿場や村には幕府から触れが出ていて、粥が振舞われました。現戸塚区内でも品濃村から戸塚宿を経て下倉田村に至る町や村々に触れが出ています。
服装は竹笠、半纏に股引、腰には武士のしるしの二本差。図のようなスタイルで、権太坂や品濃坂の上り下りなどさぞ走りにくかったことでしょう。
1着の市川喜兵衛は2位を40分ほども引き離して夕方5時半頃江戸城に帰り着きました。将軍・家斉のお目見えが叶い、酒肴と湯漬けを賜りました。今でいえば「金メダル」ですね。
6位は約3時間遅れでゴール。7位以下は江戸城帰着の記録はありませんが、全員品川宿まで帰った記録は残っています。近代オリンピックが始まる100年以上前の日本で、このような長距離レースが行われていたのです。
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