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金沢区・磯子区

公開日:2013.06.27

連載
かねさわ地名抄
第14回「宿」 文・NPO法人 横濱金澤シティガイド協会

 宮川を下流から遡って、右手に金沢文庫病院を見て左に手子神社側に曲がるところに「宿(しゅく)広場」があります。昔、このあたりに瀬戸の入海に接して「宿村」があった頃の名残です。宿村は、江戸時代初期には北東側の赤井村、西側の坂本村と合わせて釜利谷村とされていました。

 何故このあたりを宿村と呼ぶのかは不明で、江戸時代後期の『新編武蔵風土記稿』には、「もと宿驛(えき)などありて、古く開けし所ならん」とあるのみです。宿広場の付近に称名寺・洲崎等への船着場があったとの説もあります。

 江戸時代中期・後期の宿村は、田約21丁、畑約24丁、屋敷約2丁で、村高約350石でした。農閑期には薪をとって洲崎・町屋等の村々に売り、また塩竈(しおがま)を設けて塩を生産していました。海岸に塩竈が並ぶ風景が歌川広重作『金沢八景』の一つ『内川暮雪』に描かれています。

 江戸時代後期には、家数73軒のうち「農業一統」が58軒、「農間商ひ諸職人類」が15軒で、髪結・湯屋・煮売酒屋各1軒の他に穀物・酒・砂糖・菓子・足袋・古着等の商売と大工・屋根屋・桶屋等の職人がいました。この頃には宿村にも貨幣経済の影響が及んできたようです。

 宿村は、西方の鎌倉からの2本の道、北方へ赤坂・赤坂奥を経て追分(今の能見台二丁目)に至る道、並びに東へ瀬戸の入海を巡って称名寺に至る道が交わる場所に位置しています。この内、現在の金沢市民の森を越えて関ヶ谷・禅林寺・釜利谷小学校を通ってくる道の途中に、金沢北条氏初代実泰の館があったとの説があります。

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