金沢区・磯子区 社会
公開日:2017.01.01
時代の波乗り越え60余年
富岡の“最後の漁師”に聞く
かつては漁師の街だった金沢区富岡。現在海岸線は埋め立てられ、昔の面影はない。それでも「陸で飯が食える仕事は考えられない」と口をそろえて話すのは、富岡在住の漁師・蒲谷博久さん(76)、野本修三さん(76)、野本太助さん(76)の3人。同級生の3人は時代の荒波を越え、10代の頃から漁師を続けてきた。
◇ ◇
区内幸浦の富岡川の脇にある小さな船着場。入口には「横浜市漁業協同組合 柴支所富岡支部」と書かれた木の看板が掲げられている。富岡の漁師たちは昭和50年ごろにここに移った。
富岡海岸の埋め立て以前、富岡には約100人の漁師がいたという。「八幡さま(富岡八幡宮)のすぐ下は海で。西浜と東浜(現富岡ログハウス周辺)と呼ばれる海岸が広がっていた」と話すのは蒲谷さん。当時は海苔を栽培する漁業者が大半。冬のシーズンには、竹しびに付着し育った海苔を収穫した。「ゴム手袋がなくて軍手。寒かったなあ」。辛い思い出も今は何故か懐かしい。野本太助さんは、「今の海苔はただの黒い紙。天然の海苔は本当にうまかった」と笑みを浮かべる。
台風の後は、海岸に山のようにアサリやハマグリ、アオヤギが打ち上げられたとも。東京湾は毛ガニやイルカなども生息する魚種豊かな海だったと振り返る。物が豊かになった現代に、「何でもあることが裕福かね?」とつぶやいた。
昭和40年代に埋め立てが始まると、現在の船溜まり(並木)に漁師の船がずらりと並んだ。まだ並木団地は造成されておらず、南側には海がひろがっていたという。幸浦に場所を移した後、東京湾の魚のPCB汚染がマスコミで報じられた。魚はまったく売れなくなった。「多くの漁師が打撃を受け、陸にあがった。自分も一時、トラックの運転手をした」と野本修三さん。この時漁師は激減した。
「あと何年やれるか…」
漁のある日は午前2時に起床し、前日獲った魚を市場に卸して5時に港を出る――。「中途半端では勤まらない。好きじゃなきゃできない商売」。漁の道具も自分たちの手作りだ。「特に網は人それぞれに工夫して作る。それが面白い」と話す表情には、漁への想いがにじむ。
「あと何年やれるか。時間の問題だね」と冗談めかして話す野本太助さん。このままいけば、数十年後に残されるのは、同支部の最年少、佐藤清志さん(56)ただ一人だ。「なるべく長くこの場所を残したいが、3人が辞めて、俺一人になったら難しい」。少しでも長く――”富岡最後の漁師たち”の戦いは続く。
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