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公開日:2015.08.13

日野在住福田さん
大空襲の地獄、今に伝え
70年前の体験語る

  • 資料を手に、当時を語る福田さん

 太平洋戦争末期の1945年5月29日、横浜の上空に現れた米軍のB29爆撃機によって横浜の中心部は焼け野原となった。戦後70年を迎える今年、横浜大空襲を生き残った港南区日野在住の福田三郎さん(83)に話を聞いた。



 当時、神奈川区広台太田町に住み、三ツ沢尋常高等小学校に通っていた福田さん。朝6時30分頃に警戒警報のサイレンが鳴ったが、「毎日のこと」と気にせず、日の丸弁当を持ち学徒動員で働いていた横浜駅西口にあった工場へ。風がなく、澄み渡った青空だった。



 工場に着いて作業をしていた9時30分頃、空襲警報のサイレンが鳴る。いつもと様子が違うと感じて外に出てみると、空を覆い尽くすB29の編隊が。工場北側の高島台を超えて真っ黒な煙と真っ赤な炎が見える。高島台は自分の家の方角で、瞬間的に「家族はもうだめだ」と感じたという。



 B29の編隊はあっという間にこちらに向かってくる。きれいだった青空は煙で真っ暗になり、大粒の雨のように焼夷(しょうい)弾が降っている。「逃げろ」との声が響き、同級生の友人と目の前にあった運河に浮いていたイカダに飛び乗り、川の水で身体を濡らしてから岸に上がる。水に浸した手ぬぐいで口と鼻を押さえて逃げるが、火の粉と熱風が吹きつけ、立って歩くことができない。屈むように逃げた。



焼夷弾、目の前に



 あちらこちらから「水をくれ」「助けてくれ」との声が聞こえ、すでに事切れている人をまたぎながら急ぐ。全身の衣類と髪が焼け、両手から皮膚が垂れ下がり、足を引きずりながら歩く人の姿も。男女の区別もつかず、目だけがぎょろぎょろとしていて「お化けのようだった。地獄だと思った」。



 焼夷弾が線路に落ちてカチンカチンと音が鳴る。熱風が吹き荒れ、屋根のトタン板や自転車が飛んでいる。5、6mほど先に焼夷弾が着弾し、炎を上げながら反対方向に滑っていった。「こちら側に滑って来たら、命はなかった」。友人と2人、話す元気も気力もなく、ガタガタと震えていた。



運命の分かれ道



 青木橋に着き、行先に迷う。右に行けば神奈川公園、左に行けば東横線の反町のトンネル。「トンネルなら焼夷弾から身を守れる」。そう考えたが不思議と足は右に向かった。後にトンネルの中は蒸し焼きとなり、助からなかったことを知った。



 燃えている宮前町の商店街を避けながら、神奈川公園に到着。すでにB29は飛び去った後だったが、街は壊滅状態だった。周囲にはただ呆然とし、しゃがみ込む避難者か、やけどで動けない人ばかり。若い母親が赤ちゃんを下にした状態で倒れている姿もあった。



 夕方になって火も収まり、友人と別れて家に向かって歩き出す。一面が焼け野原で、ここがどこかも分からない。防空壕をのぞけば、血だらけの人が目に付いた。その後、家の周辺で家族と再会。奇跡的に一家全員が無事だった。3日3晩飲まず食わずで過ごし、4日目にふかして凍らせた小さなサツマイモが配られた。「その味は今でも忘れられない。美味しくて」



 8月15日、玉音放送は横浜駅東口の駅構内でひざまずきながら聞いた。雑音で聞き取りづらかったが、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」だけが聞こえ、「負けたんだな」と感じたという。



体験を次世代に



 「ずっと戦争のことは家族にも話していない。話したくもなかった」と語る福田さんだが、10年前に横浜大空襲の写真展を見たことを機に「自分が元気なうちに伝えていかなければ」と心境が変化した。今では毎年、吉原小学校の3年生が「ちいちゃんのかげおくり」を学ぶ際に体験を伝えているという。「戦争はどっちがいいも悪いもない。人の殺し合いだ。間違っても戦争をやってはいけない」。強い思いを口にした。

 

戦後70年 語り継ぐ戦争の記憶

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http://www.townnews.co.jp/postwar70.html

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