ラジオで聞いた広島の新型爆弾
「広島に新型爆弾が落とされたのはラジオで聞いていた。それがまさか、長崎にも落とされるとはゆめゆめ思わなかった」--。
そう振り返るのは長崎市出身で港南台在住の佐藤ミツキさん(92歳)。1945年8月6日に広島に落とされた原子爆弾は、3日後の8月9日に長崎にも投下された。
当時の佐藤さんは16歳。国民学校高等科を卒業し、本下町(現・築町)の長崎地方貯金局(旧・郵政省)での仕事に就いて2年目だった。佐藤さんは原爆が投下された午前11時2分、そろばんで利息の計算をしていたところだった。
「突然、ものすごい光と雷のような…なんとも表現のしようがない轟音が、ほぼ同時だった」
貯金局のあった建物は爆心地から南に約3キロ。建物は鉄筋造りだったが窓ガラスは割れて散らばり、通路で作業をしていた若い人たちは突風に吹き飛ばされてけがを負った。佐藤さんは使っていたそろばんをつかみ、条件反射で机の下に潜り込んで助かった。
誰も歩いていない「死の街」に一変
友人と3人で職場から自宅を目指そうと外に出ると、昼間だというのに誰一人歩いていなかった。建物は残っていたが「死の街だと思った」。やっと出会った女性は乳児を背負っていたが、よく見ると赤ちゃんは黒く焦げて亡くなっていた。涙があふれたが、帰途を急ぐほかなかった。
どうにか自宅に辿り着いた佐藤さんが心配したのは3歳下の弟・昭春さんのこと。昭春さんが勤める兵器工場はより爆心地に近かった。探しに行った父も「長崎駅より向こうは歩けない」と断念せざるをえなかった。
諦めかけていた夜9時頃、どす黒い血にまみれた弟が帰ってきた。爆発の時、工場にいた弟は吹き飛んだ鉄くずで大けがを負っていた。だがもし、仲間たちと一緒に川での水遊びに興じていたら命はなかった。爆心地そばの浦上川は死体で埋まるほどの惨状だった。「弟は女ばかりの中で育ったからか真面目だった。それで助かった」
昭春さんが山を越えて家をめざす道中、誰かに足首を捕まれた。「水をくれ、助けてくれ」と頼まれたが、満身創痍だった昭春さんはその手を振り払うのが精一杯だった。その時の罪悪感は晩年になっても拭えなかったようで、当時の様子を姉に話してくれたのも、ただ一度きりだった。
今日死ぬか明日死ぬか
「本当に怖かったのはそれからの一週間。飛行機の音がするたび、今日死ぬか、明日死ぬかと不安な日々が終戦まで続いた」。8月15日正午の玉音放送を聞いて、ようやく生きた心地がする思いがした。近所のおばさんが泣くのをみて、「悔しいのはわかるけど、これで不安から解放されるんだよ!」と叫ばずにはいられなかった。幸いにも佐藤さんの家族は命をつなぎ、重い後遺症に悩まされることもなかった。
その後、佐藤さんは24歳で上京すると日本で初めてソフトクリームを発売した「日世」などで経理として働いた。「被爆したことは言わない方がいい。結婚できないよ」と言われたが、夫・寛さんと出会って2人の娘に恵まれ、今は2人の孫もいる。「オリンピックができるくらいなんだから、もっと(各国は)仲良くできないものか。戦争は絶対にやっちゃいけない。語り継ぐことが何かお役に立てるのなら」
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