本牧 気まぐれ歴史散歩 34 本牧村役場は何処にあったのか?
江戸時代、現在の中区・西区・南区・港南区・磯子区あたりの地域は「本牧領」と呼ばれていました。本牧領には36の村があり、その中心が「本牧本郷村」、現在本牧と呼ばれている地域でした。では、村役場はその中の何処に置かれていたのでしょうか?
本牧領は幕府の直轄地で、本牧本郷村の中は3人の旗本の知行地が入り組んだ状態となっていました。旗本の下には、それぞれの旗本に仕える名主がおり、行政の仕事もそれぞれの名主の家で行われていましたので、村全体を所管する施設はありませんでした。
そもそも当時の本牧は、本牧領の「本郷村」であり「本牧村」ではありませんでした。行政上「本牧村」となったのは、明治22年に本牧本郷村と北方村が合併してから、横浜市に編入される明治34年までのたった12年間です。初めて村役場が置かれた場所は定かではありませんが、明治34年の横濱貿易新報(現:神奈川新聞)の記事から類推すると、最後の役場は今のガス山通入口あたりにあったようです。かつて本牧領のいち箇村に過ぎなかった横浜が開港場となり急速に都市化したことから、本牧村の中心も高札場があった現在の本牧元町付近から、横浜に近い本郷町へと移っていったと思われます。
次回は、本牧村の最後の役場があった場所から程近くにある、もうすぐ創立百周年を迎える小学校を訪ねたいと思います。(文・横浜市八聖殿館長 相澤竜次)
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