〈連載〉さすらいヨコハマ④ 吉野町に料亭があった 大衆文化評論家 指田 文夫
「料亭政治」という言葉があった。明治時代、政治家が新橋の料理屋で会合したことが始まりだそうだ。
1970年代まで、自民党各派閥の会合に赤坂の料亭が使われ、それを題材とした映画『赤坂の姉妹・夜の肌』(監督・川島雄三、1960年)もあり、「世界のニナガワ」(蜷川幸雄)も端役で出ている。
「日本橋」と呼ばれ
横浜にも料亭はあった。旧東海道筋の青木橋と横浜駅西口の台町、関内にも数軒あり、根岸と磯子の海岸にもあった。さらに、南区の吉野町や新川町にもあったというと驚くだろう。実際に運河に架かっていた日本橋とは少し異なる場所だが、日本橋と呼ばれ、結構有名な料亭エリアだった。
会計基準国際化の余波
ではなぜ、横浜の料亭がなくなったのだろうか。マスコミの「官官接待」の批判などもそうだが、最大の原因は、「会計基準のグローバル化」によって、中小企業でも、自由に接待交際費が使えなくなったことである。港湾など、横浜のオーナー企業社長でも、料理屋を自由に使えなくなった時、料亭街の終焉が来たと言えるだろう。
(文中敬称略)
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