保土ケ谷区 スポーツトップニュース
公開日:2024.01.01
「花の2区」権太坂の今昔
あす、100回目の箱根駅伝
新春の風物詩「第100回箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)」(関東学生陸上競技連盟主催)が、1月2日と3日に行われる。「花の2区」と呼ばれるエース区間の難所の一つが、テレビ中継でもよく耳にする「権太坂」。その歴史を紐解いてみた。
駅伝コースで「権太坂」と呼ばれるのは国道1号線の元町橋交番前交差点から市児童公園入口交差点までの約1・4Km、高低差およそ35mのなだらかな坂道のあたり。鶴見中継所〜戸塚中継所間23・1Kmの13Kmあたりに位置し、最初の難所としてランナーを苦しめる。
本来の坂は隣に
しかし、本来「権太坂」と名付けられている坂道は国道1号線の北側、元町橋付近から県立光陵高校の横を通り境木中学校方面へ抜けていく旧東海道を指す。
関東学生陸上競技連盟の『箱根駅伝70年史』によると、1920(大正9)年の第1回大会のコースは旧東海道がベース。1937(昭和12)年の18回大会で「旧道より権太坂新道へ移る」との記述があり、それまでは旧道がコースだったことがうかがえる。
最初の急坂が特徴的で、高低差は約50mと息が切れるほどの勾配。まさしく「東海道最初の難所」と呼ばれた坂道にあたる。
街歩きガイドなどを行う保土ケ谷ガイドの会の麻生民次会長は「権太坂は江戸幕府ができたのち、1660年ごろに開拓されたと言われています。当時は傾斜によって一番坂、二番坂と分かれ、現在の道沿いにあるマンションの屋上くらいまでの高さがあったそうです」と説明する。
「東海道の難所」は真実?
一方、保土ケ谷宿の歴史を伝えるイベントを企画するほどがや・人・まち・文化振興会のメンバーで東海道の歴史に造詣が深い横溝高一さんは「権太坂に関する記述は箱根より西の史料には登場せず、『難所』と言っていたのは保土ケ谷宿だけ。江戸から来た旅人を戸塚宿に行かせないために声高に宣伝したのでは」と指摘する。
明治時代に新道誕生
旅人の往来でにぎわった権太坂だが、明治時代に入ると馬車や荷車、人力車などの往来が激しくなり、勾配の緩やかな新道開削を求める声が上がった。
『保土ケ谷区史』によると、1884(明治17)年には保土ケ谷〜戸塚間で現在の国道1号線にあたる新道が完成。1923(大正12)年の関東大震災ののち、1932(昭和7)年の改修で元町橋〜戸塚間がコンクリート舗装となった。
その一方で元来の権太坂の変遷は、権太坂小学校の創立10周年記念誌に書かれている。それによると国道の開設後は道路敷地の払い下げが行われ、十間(約20m)あった道路幅も4mほどになったという。戦後の1950年代には当時の平沼亮三市長が土地を無償提供し道路改修が行われ、坂の入り口には今も記念碑が残る。その後は雑木林だった一帯も宅地化が進み、今では閑静な住宅街となっている。
昨年11月には「区民企画型講座」として、新旧2つの権太坂を歩く歴史講座が開かれた。講師として参加した保土ケ谷ガイドの会の麻生会長は「改めて歩くと大変さを実感した。100回目の箱根駅伝、国道の権太坂で応援するのも良いでしょうね」と話した。
名前の由来は
ちなみに「権太坂」という印象的な名前の由来は2つあり、ひとつは坂を開拓した藤田権左ヱ門にちなんだ「権左坂」が転じたものという説。もうひとつは旅人に坂の名前を尋ねられた老人が、自分の名前を聞かれたと勘違いし「ごんたでございます」と答えたのが由来という説がある。
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