1945年5月29日、横浜上空に飛来したB29爆撃機が投下した焼夷弾によって、8千人以上ともいわれる犠牲者を出した横浜大空襲から29日で76年。12歳のときに東神奈川の自宅で空襲に遭った酒井(旧姓渡邉)律子さん(88・三ツ沢下町)は、戦争の悲惨さを後世に伝えようと2年前に体験記をまとめた。「思い返すのはつらかった。でも、将来の子どもたちに二度とあのような思いをさせてはいけないから」。絞り出すように訴える言葉には、平和を希求する強い思いがにじむ。
川崎市の京浜女子商業学校(現白鵬女子高校)に入学したばかりだった酒井さんは、現在の神奈川2丁目の運河沿いで両親と暮らしていた。5月29日は早朝に警戒警報が発令されたため登校せず、母・タケさんと自宅で過ごした。
耳をつんざくような空襲警報が鳴り響いたのは、8時を過ぎた頃。慌てて家を飛び出し、近くの空き地に造られた防空壕に母と逃げ込んだ。
5・6人が入れるほどの小さな防空壕に住民と身を潜めていると、外から入口の蓋を叩かれた。「こんなところにいたら焼け死ぬぞ」。外に出ると、目に飛び込んできたのは現在の国道15号線の向こうが燃え盛る炎で包まれた光景だった。「まさか本当に爆弾が落とされるなんて」。そう思ったのもつかの間、東神奈川方面から一目散に逃げてくる人たちと海に向かって駆け出した。
爆弾落ちたら目と耳ふさぐ
「どういうわけか、母は私に早く逃げるように言って自宅に戻りました。庭に掘ってあった穴に布団を隠してやかんに水を入れ、私たちとは別の方向へ逃げたそうです。なぜ母がそんな行動をとったのか、良く分かりません」。母と別れた酒井さんは綿花町を抜け、父・菊蔵さんが働く市場のほうを目指した。
台場跡そばの貨物転車場を通って市場前の通りに出る寸前、近くの住宅に焼夷弾が落ちた。「目の前お店に逃げ込み、爆弾が落ちたときのためにと母から言い聞かされていたように、目と耳を押さえてうつ伏せになりました。今でも不思議ですが、とっさにそういう行動をとっていたんです」
浅野ドックで母と再会
空を見ては走り出し、空を見ては走り出しの繰り返し。やっとの思いでたどり着いた万代橋から自宅のほうを振り返ると、辺り一面は火の海だった。「自宅には床を上げて穴を掘った防空壕がありましたが、そんなところに隠れていたら命はなかったでしょう」。炎と爆風で肌が焼けるように熱い。母は無事だろうか――、そんなことを考えながら海沿いを歩き、空襲被害を免れた浅野財閥の造船所「浅野ドック」に避難した。
近所の人が母の姿を見つけてくれ、お互いの無事を喜びながら抱き合ったことを今でもよく覚えている。市場から逃げてきた父とも合流して神奈川小学校に向かったが、校舎は空襲の被害を受けていたため六角橋に住む伯母の家に身を寄せることにした。
転がる焼死体「まるで木材」
伯母の家に向かう道端には、性別も分からないほどに焼け焦げた死体がいくつも転がっていた。「人間の形をしていても、何だか黒い木材のよう。なので恐ろしいとは思いませんでした」。道路に並ぶ木造電柱がパチパチと音を立てて燃え、ろうそくのように見えた。市電は線路上から吹き飛ばされ、爆風のすさまじさを物語っていた。
8月15日、酒井さんは疎開先の埼玉県児玉町で多くの人とラジオを囲み、玉音放送を聞いた。雑音ばかりで内容はほとんど聞き取れなかったが、「良かったね」「戦争は終わったんだね」と喜ぶ周囲の人たちの声で、ようやく終戦を実感できた。
家族の後押し 記憶たどる
「デマだと思いますが、空襲当時に荷物と間違えて赤ちゃんを投げてしまったという話を聞きました。家の隣には若いご夫婦が住んでいましたが、ご主人は生まれたばかりの赤ちゃんを残してサイパン島で戦死し、奥様は子どもを連れて自殺されました」。自分よりもつらい思いをした人はたくさんいるという負い目から、酒井さんは戦争体験を語ることも回想することも避けてきたという。それでも家族に背中を押され、2年前に当時の記憶を文章にまとめた。
それ以来、5月29日が近づくと炎の中を逃げ惑ったあの日の記憶が脳裏をよぎる。「あんなに悲しい出来事は、もう二度と起きてほしくない」。平和を望むひとひらの思いが、一人でも多くの人に届けばと願っている。
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