高津物語 連載第八二六回 「溝口上町・宗隆寺」
その昔、旧亀屋十字路角から溝口神社脇を通り、神社の後田から宗隆寺へ通じる道は、車も通れない狭い田圃の畦道だった。
「昭和十六年(一九四一)神社後田一帯の耕地整理によって、現在の様な道路幅に拡張された」と『思い出のまちかど』(上田恒三著)に書かれている。溝口交差点(旧亀屋交差点)を曲って、二四六方面に進む道路のことを言っているのだが、指摘のように狭く細い道であるが、昭和十六年になぜ拡張されのか?拡張されなければならならなかった理由は何だったのか?全ては七面山高射砲陣地化の故だ。
同書『七面山とお経の松』で書かれているので、一部拝借し、話を進める。
「溝口宗隆寺の西側久地村境の矢の免坂まで続く丘陵は多摩丘陵の一部であるが、長尾、下作延、久本と続く丘陵は、独立した丘陵であり、この丘陵の南端を七面山と呼んだこと」
呼称の基となったのは「日蓮宗の堂宇・修行者・信徒の守護神―七面大明神を祀る事から七面山と呼ぶ眺望すこぶる良い所で、春夏秋冬、花鳥風月を楽しむ風流人が良く訪れた。 宗隆寺が天台宗本立寺から日蓮宗に改宗した時、宗隆寺住職日濃聖人が『法華経千部』を埋め、数本の松を植裁したこの内の一本が、後に大木になり『御経の松』と呼ばれ、稲毛七本松にも数えられたと言うが枯れてしまい今は無い」という。「日濃聖人が日蓮宗に改宗した時、池上本門寺より日蓮聖人尊像を開眼され、法華経千部を埋葬したとの言い伝えられる『千部塚』や古い信仰の『大陸天塚』は、僅かにその姿を残している。千眼天王の霊夢によって日蓮宗に改宗し、千眼天王を祀った『千眼堂』は今はないが、その痕跡は確認されている」という。
七面山には宗教遺跡ばかりでなく、町の歴史を物語るモニュメントも多く確認されている。即ち乃木希典大将の揮毫になる「日露戦争記念碑」初代高津町町長の岡重孝氏揮毫になる「日清戦争記念碑」、自由民権家の林喜楽や尋常高等第一高津小学校教員で日露戦争に出征、戦死した小野寺栄八少将の招魂碑裏に「大貫カノ」の名前も見える。
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