高津区 コラム高津物語
公開日:2014.09.26
高津物語
連載第八六一回 「『いやのめ』のこと」
久地神社辺を、昔は大明神山、比丘尼山と呼んだ。元禄頃、上杉氏に仕えた尼が、住み着いたのが理由だと『風土記稿』にある。
地元は「デイミョージン山」と呼んだ。山裾寒く厚さ三cmの氷が張り明治一四年頃製氷場を作り、綱島村飯田助太夫天燃氷製法を導入して、向ケ丘遊園から綱下げ松迄氷溜を作った。
玉川電車開通後は、瀬田から渋谷の氷室に出し「長尾氷場の水酌み唄」も今も残ると『長尾の天燃氷』(上下巻、角田益信)にある。
大明神山を迂回する道を伊屋之免村の伊は発語、意味なしと『大言海』。ヤノメのメは、租税免除の免らしい。やのめ坂の麓に旧帝国臓器・日本ヒューム管の案内搭が今も残っている。
この坂を登り、下ると昭和三七年八月七日午後三時頃南武線久地―津田山間無人踏切に出るトラックと南武線が衝突、傾いた電車に上り電車が突っ込み一両が転覆、電車の運転手等三人が死亡、重軽傷奢一二四人も出し、救急車が怪我人を搬送する大惨事が起きた。
近くの帝国臓器社員の献身的な救助状況が、今も伝わる。(『かわさきのあゆみ』写真で見る明治・大正・昭和、川崎市)ここを左折すると、津田山駅前に出るが、左の山を見上げると木の間に三菱自動車津田山工場が見える。日本海軍最大の戦艦大和・武蔵の基準排水量六万四千トン、口径四六cmの砲九門は無敵と言われた。
装備された計測器(射程・従量・容積)は、当時の日本光学川崎久地工場で、極秘裏に昭和十六年に製造されたものである。
計測器から皇居を望遠すると、皇居の玉砂利が見えたという話が残る。日本光学第一・二工場は海軍関係の測射器を製造、現在の洗足学園音楽大学・川崎北税務署一帯の全部。第三工場は現在のパーク・シティーとイトーヨーカドー溝口店・養護学校・NECスイミングクラブ敷地にあった。
元に戻って、南武線の先程の無人踏切を登ると、津田山駅から続く緑ヶ丘霊園の多くの墓地が見える場所に出る。春は桜が満開の場所である。その手前に久地診療所やマンションが右手が見える。この辺りが「いやのめ」といわれる場所だ。
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