連載第一〇三四回 「二子新地誕生」 高津物語
大正一四(一九二五)年七月多摩川に二子橋が架かり、二年後の昭和二年七月一五日玉川電気鉄道が溝ノ口まで乗り入れ営業を開始した。東京側の岸辺には料亭が立ち並び、屋形船を浮かべての川遊びは風流好みの旦那衆を喜ばせたから、当然こちら側にも花街ができた。かの子の実家大貫家の分家大貫酒店が、関東大震災で東京の待合が倒壊し、二子新地の土地に新開地を建てた。
料亭・待合・芸者置屋からなる二子三業地―二子新地の誕生である。川向こうの東京で店を構えていた料亭「仙寅」も大正一五年にこちらに来た。東京側の料亭は川に近いことから料亭の屋形船で舟遊びが盛んだった。
仙寅の来る前は、待合だけで五、六〇軒あったといい、芸者衆も昭和五、六年の最盛期には、百人近くいて、それは賑やかだった。お客は二子橋や玉川電車の工事関係者をはじめ、多摩川砂利景気の関係者がほとんどだったという。
仙寅の前には、機械船が掘り出した巨大な穴が現在の国道二四六方面にまで広がっていた。
戦前の二子新地の接待は五、六〇軒あり、皆出前に行ったそうだ。待合は仙寅だけで常態として看板は午前二時だったという。前日に遊んだ客がそのまま居続け、翌朝芸者と差しで飲むこともあったとか。
仙寅は年中無休だった。おかみさんの吉野カツさんは雨や雪の日の出前で、重い岡持ち(飲食店等で配達に使う、料理を入れて運ぶ箱)を持って行きながら「早く辞めたいね」と言ったこともあったという。
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