さがみはら南区 社会
公開日:2025.08.21
優しくされた日本人もいる
相武台在住 増本敏康さん
「戦後生まれで戦争は知らない。ただ、両親は戦後台湾から引き揚げた後も向こうの人と交流を続けていたことを伝えたい」―。
相武台在住の増本敏康さん(79)の父・森常さん(享年87)と母・文江さん(享年94)は戦時中、日本統治下だった台湾東部にある鹿野村(現・台東県鹿野郷)で暮らしていた。当時、台湾総督府により花蓮、台東一帯で大規模な移民政策が行われ移民村が建設されていた。鹿野村もそのひとつだった。
森常さんは佐賀県相知村(現・唐津市相知町)に1913年に生まれた。長崎県佐世保で理容師養成学校に通っていたが、衛生兵として招集され鹿野村へ渡った。
母・文江さんは鹿野村で1923年に生まれた。「母の実家は高田市(現・新潟県上越市)にある。祖父が大工で集団移住したと聞いている」と増本さんは話す。鹿野村は台東製糖株式会社がサトウキビ生産の担い手として移民を募集しており、特に新潟県からの移民が多かったという。
文江さんは役場に勤めていた。「当時の暮らしの様子は聞いたことがない。ただ頭は良かったんじゃないか」と振り返る。病院経営者の紹介により、森常さんと文江さんは結婚。終戦後、移植者は帰国させられた。森常さんと文江さんも同様に佐賀県に戻った。
翌年、1946年に増本さんが誕生。「馬小屋で生まれたと聞いている。引き揚げてすぐは貧しく厄介者扱いだったんだと思う」と推測する。
増本さんは両親の鹿野村での暮らしについて話は「知らない」という。だが、引き揚げ後も鹿野郷との交流を続ける二人を見ていた。
森常さん、文江さん夫婦は同地へ観光に訪れ、また逆に台湾の知人を招き、文江さんが案内していたこともある。「母から頼まれて来日した友人を成田や銀座に車で送ったこともある」という。
郷長から感謝状
2007年、文江さんは鹿野郷の郷長から感謝状が贈られた。同地の郷土史をまとめる際、文江さんが資料を提供したことに対してだという。
「引き揚げ者は現地に対してひどい扱いを受けたり、またひどい行いをしたと報道されているのを見る。でも、戦後も交流を続け、優しくされた日本人もいる。そのことを伝えたい思った」
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