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八王子 社会

公開日:2025.09.25

「上から狙われる恐怖」に怯え
川口町在住 増田禎司さん

  • 「終戦を知り安堵した」という増田さん

 「忘れられない出来事がある。あれは、八王子空襲があった後、8月10日くらいのことだった」

 そう話すのは、当時第一国民学校(現在の市立第一小学校)4年生だった増田禎司さん(89)。必死の思いで逃げ、兄弟たちと野猿峠から八王子の市街地が燃えるのを見た8月2日未明に起きた八王子空襲。横山町にあった自宅も被害に遭ったため、翌日から家族総出で片付けに追われ、あり合わせの材料で一時しのぎの簡易な小屋を建て終えた矢先だった。

駅狙い、機銃掃射

 8月10日頃、残りの片付けをするのに親と家の外に出ていたところ、戦闘機が1機、かなりの低空飛行でこちらにやって来るのがわかった。「たぶんグラマン(製)だと思う」。その戦闘機は八王子駅に向かいながら、駅に集う人たちを狙うかのように機銃掃射を始めた。その日の駅は、八王子空襲の後、八王子からそれぞれの田舎に避難する人たちで混み合っていた。「そこを狙うなんて」。増田さんは、一時的に身を守れる待避壕に入り、迫り来る敵機から隠れた。あまりに低いので、「操縦士と目があった気がした。自分が狙われていると思った」。掃射は一度では終わらず、何回も繰り返し行われ、そのたびに増田さんは体の方向を変え、敵機から逃げ惑った。「正確な数はわからないが、かなりの人が亡くなった。一般市民を狙う、これが戦争なんだと思った」

「もう狙われない」

 命に関わる危機から二度も脱した増田さん。それからすぐ、相模原にいる農家の親戚の元へ弟と避難した。15日、親戚一同がラジオの前に集まる中、流れた玉音放送。電波が悪く途切れ途切れで何と言っているかわからない中、大人たちの様子から「負けた?」という雰囲気が伝わってきた。結局確かなことは誰もわからなかったが、その日から空襲が無くなったのが何よりの証拠だった。子どもながらに「もう上から狙われることはないんだ」と安堵の気持ちが込み上げた。

 増田さんの生家はもともと佃煮を販売する商店を営んでいた。戦後のある日、父親が新品の柱時計を買って帰って来た。母親が「商売っていいだろう。真面目にやっていれば何でも手に入る」と言った言葉が胸に残り、自身も商人の道へ。大人になり、八王子で始めた冷凍食品の卸売業「増田屋」は、時代の追い風を受け大きく成長した。「(戦争が始まってしまったら)軍部は都合のいいことしか言わない。だからこそ、まず戦争を起こさないことが大切」と静かに語った。

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