「ものすごく大きな揺れでした。もちろん経験したことがないくらい」――。
2011年3月11日。夫と二人で福島県相馬市原町の海岸線から少し離れた高台にある自宅にいた時だった。震度6弱。すぐ後にも余震が続き、不安は募るばかり。自宅は被害がほとんどなく、東京電力福島第一原発のこともまだ頭になかった。電気が生きていたため、テレビを見ていた。そこに仙台の津波の映像が映し出された。「身近なことだとはピンとこなかった」と振り返る。しかし、そのすぐ後、近くを流れる川の水量が上がるのを目にし、押し寄せてきた津波による砂埃がそばの松の木の高さまで舞い上がっていたのが見えた。
しばらくしてから「買い物にいかなきゃ」と外に出た。近くはどこも被害はでていなかったものの、閑散としていた。海岸線の方に近づくと、目を覆うような惨状だった。ある道路を境に建物がすべてなくなっていた。「逃げよう」。不安な一晩を過ごし、翌朝二人で実家のある二本松に避難した。そこではじめて原発事故のことを知った。
次々と原発事故の情報が入ってくる。放射線量が二本松でも高くなっていた。「テレビでは原発近くの情報は流れるんです。でも二本松のあたりについてはあまりない。量ってみたら軒下、庭先、畑も線量が高いんです。これは絶対になくならない。ここにはもう住めない。そう思ったんです」
もう帰らない
富山と世田谷にそれぞれ住む長女と次女、多摩に住む長男から「引っ越してきなよ」と誘われた。偶然にも震災の1週間前に多摩の長男のところに遊びに行っていた。「若い頃から多摩ニュータウンのことは知っていた。それで遊びに来てみたら、街並みも綺麗で自然も豊かで『良い街だな』と思って。それで息子の近くに、多摩に行こうと思いました」。運よく豊ヶ丘のURの抽選に当たったこともあり、簡単な荷物を持って引っ越してきた。
生まれ育った故郷を離れることに対して抵抗はなかったという。それよりも自分たちの生活で手一杯だった。「安心して住むことができる。それが何よりも一番。孫もいるし、あそこに連れて帰ることもできない」。自宅は処分し、今は貝取に住んでいる。まだ二本松には兄弟や親戚が住んでいるため、定期的に帰ってはいるものの、自分たちはこのまま多摩に定住するつもりだ。
情報交換の場を
あの震災から5年。時が経つにつれ、故郷へ思いをはせる機会も増えてきたという。ある時、同じ原町に住んでいた若者が震災の被災者で集まる催しを八王子で企画していたことを聞き、参加した。「私が知らないだけなのかもしれないけど、多摩ではそういう機会がなかった。市内にも多くの被災した人たちがいると聞いている。でもつながる手段がない。ぜひ同じ境遇の人たちと、情報交換ができる機会があればうれしい」と話す。
現在、夫と娘さんと市内で雑貨店を営む。「ここで暮らしていくんですから、楽しく生活していこう。今そう思っています」
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