現在の神奈川県相模原市から、多摩市一ノ宮周辺まで電車を走らせる計画が大正時代から昭和にかけてあったという。八王子市の鑓水地区を拠点とした南津電気鉄道。その軌跡がまとめられた書籍からその歴史を読み解く。
この鉄道の軌跡をまとめた書籍「幻の相武電車と南津電車」(サトウマコト著)によると、発起人は鑓水出身の大塚卯十郎さん。現在の台東区・浅草で役所勤めをしていたものの、1923年に起こった関東大震災により働き場と住居を無くし、故郷である鑓水に大塚さんが戻ったことから、鉄道設立を目指す物語は始まる。
「街のために」
地元に戻り、大塚さんが新たな仕事として選んだのが旅館経営だった。ただ、仲間と共に現在の相模原緑区の川尻地区にある土地で始めたものの、当時、鑓水から川尻までの交通手段は基本、徒歩。片道で4時間以上かかってしまうことから、大塚さんは交通の便の向上を考えるようになったという。そこで、「わが村を豊かにするためにも」と行き着いたのが鉄道の開通だったようだ。
背景にあったのが、私鉄の開設ブーム。大塚さんが小田急線の開通に携わった人物らと面識があったという記載が本にあり、「その後、多くの賛同者が表れ、川尻と今の京王線・聖蹟桜ヶ丘駅につながる路線の計画が立てられたようです」と八王子の歴史を調べている地域住民の一人は話す。
そして電車の名称は、現在の一ノ宮周辺を指す南多摩郡関戸と津久井郡川尻を結ぶことから、それぞれの頭文字を取り、南津電気鉄道となった説があるという。
相模原線はなかった?
国から鉄道運行の許可が下りる頃には、鑓水地区の住民らはわき、路線地域の活性化につながる起爆剤としての期待を一身に集めるようになったようだ。しかし、そこから工事が始まると状況は一変する。運行開始を目指し鑓水に設立された会社は次第に資金難へと陥っていくこととなり、1929年に計画は頓挫。計画は幻となってしまった。
先の地域住民は「もし南津電車が開通していたら、行先が重なる京王相模原線は現在走っていなかった可能性もあると思う。開通を目指し街が盛り上がったにも関わらず、話が無くなってしまった。光と影を感じるね」と話している。
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