多摩 社会
公開日:2025.07.24
夫婦で平和の大切さ伝える
多摩市豊ヶ丘在住 田端道子さん
豊ヶ丘在住の田端道子さん(84)は戦禍の激しかった記憶はおぼろげだが、熊本県人吉市で幼少期を過ごした戦後間もないころの記憶ははっきりと残っている。
田端さんが生まれたのは太平洋戦争の真っ只中、父親が出征していた中国北京近くの張家口だった。両親と兄弟の5人家族。戦いが長く続き満州に移動したとき、いよいよロシアが参戦してくる状況になり日本軍も危うくなってきていた。
遺品は「爪」だけ
戦争で亡くなった父親からの「急いで日本に帰れ」という指示により、ロシアが攻めてくる前に逃げ出すことができた。しばらくは日本に帰ることができず、中国をさまよっていたが、命からがら母親と兄弟と一緒になって帰国できることになった。
父親の骨も無く、遺品として残っていたのは死を覚悟した父親から渡された爪だけだった。道子さんは今でも「なぜ父が殺されなければならなかったのか」と思い出し、声を震わせる。
幼少期は九州に
父親の故郷でもあり、親戚が温泉を運営していた人吉市へ。ここで幼少期に出会い保育園も小学校も一緒で、後に結婚する夫の克敏さん(83)と出会った。克敏さんの父親は特攻隊の教官だったが最後は自ら戦闘機に乗り命を落とした。
「母は必死に子どもたちを育ててくれた」と幼少期を振り返る道子さん。幼い子どもたちを育てながら化粧品販売をしていた母親のために周囲の人は化粧品をよく買ってくれたという。
手伝いで購入者の家まで化粧品を持っていくとお菓子をくれた思い出が残っている。福岡県にある短大まで進学し、母親の「将来役に立つから」という勧めで栄養士の資格を取得した。
結婚した後、都の教職員になった克敏さんと一緒に都内へ。絵を描くことが好きで、教える資格も得た。
その後、パソコンで絵を描く面白さも覚え、今では趣味になっている。道子さんは「戦争から逃げ惑う時に、支援してくれた中国の方への恩返しのために」と話し、夫婦揃って中国に渡ったこともあるという。
子どもたちを育ててくれた母親のことを思い出しては、「いい夫と出会えたことが一番の親孝行だったのではないでしょうか」と道子さんは微笑んだ。
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