「鎌倉殿の13人」に綾(あや)なす歴史話
綾瀬と鎌倉殿
―渋谷一族と綾瀬―
3月18日号と5月6日号で2回にわたり渋谷重国の動向を紹介し、平家と源氏という大きな時代の変化の中、時世を読み渡り歩いていた在地領主の姿を見てきました。
ここからは、渋谷荘と渋谷一族について、現在の綾瀬市域との関わりについて見ていきたいと思います。
綾瀬市域と渋谷一族のつながりは、『入来院文書』や『吾妻鏡』などの記述から伺うことができます。
綾瀬市域は全域が、「吉田荘(渋谷荘)」と呼ばれる荘園でした。
渋谷荘の範囲を示す地図などは残っていませんが、重国の子孫が名乗った名字や前後の時期の文書に記される周辺地域の地名などから、範囲が検討されています。
具体的な地名としては、打戻・深谷・落合・深谷・早川・吉岡・大谷・落合・寺尾・飯田などが見て取れます。現在の地域に所縁のある地名が数多く残っています。
周辺の様子を見てみると、東は鶴間郷や深見郷など、西は海老名郷、南は大庭御厨、北は座間郷が、南西には寒川神社の社領があります。
詳しく見ていくと、西側は五社神社(綾瀬市早川)から小園にかけての丘陵付近までが、渋谷荘の範囲と考えられています。南側は小出川周辺が大庭御厨との境界となり、北側は栗原周辺(座間市)が座間郷との境界とされています。東側は引地川周辺が渋谷荘に該当していますが、荘園の境界は確定されておらず、滝山街道周辺まで渋谷荘だったという指摘もされています。(参考『綾瀬市史6』)。
これらの地域の中でも、重国の子孫の名字からみると綾瀬市域は渋谷一族にとって重要な拠点だったことが伺えます。次回は、名字と地名について見ていきます。
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