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海老名・座間・綾瀬 社会

公開日:2025.08.15

母に救われた5歳の命
座間市入谷東 弓削薫さん(85)

  • 当時の広島の地図と被爆者健康手帳を前に語る弓削さん

 「ピカッと光って、その一瞬しかわからないけど、とっさにお母さんが覆いかぶさってくれて」

 広島に原爆が投下された1945年8月6日、当時5歳だった弓削薫さんは爆心地から約2Kmの場所で被爆した。父・シズカさんは出征しており母・カツコさん、薫さん、弟2人の4人暮らし。その朝も母が掃除をする日常の風景の中、8時15分、原爆が投下された。庭先にいた薫さんを守るように覆いかぶさった母は、背中と顔半分に重いやけどを負った。家の中にいた幼い弟2人を連れ、4人でどこをどう歩いたのかは覚えていないが「多くの人が倒れていて、『水をください』と言っていた」ことは今も忘れない。

 避難した先は、父方の祖母が暮らす父の実家があった島根県だった。当時は、放射能や被爆に関する知識もない時代。やけどによる傷がケロイド状になっていた母だけは「病気がうつる」と思われ、母屋ではなく、敷地内の蔵で寝起きしていたという。弟2人は特に外傷はなかったが、被爆の影響があったのか間もなく、母も9月に他界した。その後、父も戦地の病院で亡くなったことがわかった。

結婚に反対も

 薫さんは療養のため、母方の実家があった兵庫県・丹波篠山にしばらく身を置いた。「母の実家が病院をしていたので、母が送り出してくれたんだと思う」。島根に戻ったのは小学校に上がる頃。祖母の畑仕事を手伝いながら、いとこたちと暮らした。幸い被爆による体調の悪化などもなく、中学卒業後、親戚を頼って上京した。

 家事手伝いをしながら、洋裁学校にも通うなど平穏に暮らす中、お見合いで夫になる乾吉さんと出会った。「(夫の)ご両親からの反対もあった」と被爆の影響を口にするが、乾吉さんの気持ちが変わることはなかった。娘2人を育て、今ではひ孫も3人いる。

 薫さんは戦後80年を機に今年7月、広島や島根を訪れた。当時暮らしていた島根の家には住む人がおらず、父や先祖が眠る墓前に手を合わせた。今も世界で絶えることのない紛争。「戦争がない、世の中になれば」

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