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綾瀬版 公開:2015年5月15日 エリアトップへ

〈第11回〉渋谷氏ゆかりのコースを訪ねる【11】 あやせの歴史を訪ねて 綾瀬市史跡ガイドボランティアの会

公開:2015年5月15日

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 この頃、寿永元年(1182年)2月、平家随一の勇将と謳(うた)われた平知盛、木曽義仲追討使として北陸に派遣される。これを受けて義仲も翌月には越前国に入ったが、折悪く全国的な飢饉が発生。各方面での内乱は膠着(こうちゃく)状態となっていた。しかし、時の流れは九州や四国でも反平氏の気運は高まっていた。

 頼朝にとって幸運だったのは、随身する東国武士団の重鎮達の意見を受け容れて、東国の経営に時を割く事が出来た事だった。既に先発軍の行家・義経の状況、義仲、京に近づき正に京を席巻せんとする情報等々が届き、寧日なき日々が続いた事だろう。しかし、東国の地固めが出来た事は大きな収穫だった。また、頼朝が満を持して送り込む後発部隊の武士団も、戦仕度に余念がなかった。その中に、なお矍鑠(かくしゃく)として渋谷一族を束ね、渋谷の庄に君臨する重国の姿があった。兎も角、光重・高重を始めとして子息たち、溌剌(はつらつ)と東国の武者として領地開拓拡充の傍ら、武芸・武術に励んでいた。この頃、京・西国の人々より東国の武士達は坂東武者と蔑称されていた。

 一方、膠着状態となっていた北陸戦線が大きく動いた。寿永2年4月、雪融けの候を見計って現状打破を模索する平氏方、形勢逆転を計るため、10余万の兵を続々と派遣した。一時は義仲軍形勢不利となる状況もあったが、義仲の気候風土・地理を熟知し果敢な奇策が功を奏し、平家軍大敗を喫す。この事、読者を含め世の多くの歴史愛好家の方々は既に御承知の事と拝察致しますが、かの有名な倶利伽羅峠(くりからとうげ)の火牛(かぎゅう)の計と言われている奇襲作戦だったのである。この計はのち、関東一円を制覇した武将も用いた策であった。

 ともあれ平家軍、壊滅状態を立て直す術も無いまま義仲軍の追撃の勢いと迅(はや)さに、ただ退却を余儀なくされ京へ逃げ戻らざるを得なかった。平家方の首脳陣は鳩首(きゅうしゅ)会談を重ねるも義仲撃退の策は浮かんでこなかった。万策尽きた!?平氏は京都退去を決し、各地に在った平氏一族、平家軍の部隊を招集し西国を目指した。

 寿永2年4月、10余万の軍勢を派遣し義仲討滅を計った平氏首脳陣だったのだが…。そして今は…。7月25日、万感胸に迫る想いもあった事だろう。六波羅へ火を放ち、安徳天皇と三種の神器を擁して京都を脱出し、福原へと赴いていく。その福原へも一夜を明かしたのち火を放ち、西国へと落ちていった。二度と京都へは戻れない逃避行となったのである。

【文・前田幸生】
 

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