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綾瀬版 公開:2016年2月12日 エリアトップへ

〈第20回〉渋谷氏ゆかりのコースを訪ねる20 あやせの歴史を訪ねて 綾瀬市史跡ガイドボランティアの会

公開:2016年2月12日

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渋谷氏の城跡と伝えらえる「早川城跡」
渋谷氏の城跡と伝えらえる「早川城跡」

 元暦2年(1185年)3月、平家方に対して頼朝、想い描いていた勝利ではなかったが…。一段落の手応えを感じていた。兎にも角にも頼朝、本来の遥かなる念願であった鎌倉に武家・武門の府を創る事であった。永い間、御所・院・朝廷に犬馬(けんば)の労を強いられ、服従の年月があった。この頃には頼朝、公文所・問注所・侍所・引付衆(ひきつけしゅう)と武から文へと体制の移行を図り、帷幕の諸将、東国の武士達の論功行賞・地位など勘案し、その収束を計っていた。

 渋谷氏この頃、平家軍との戦いの功績に対し、恩賞に浴していたが、遠隔地であったため、その領土の経営に、苦慮した事だろう。重国・高重、鎌倉の御家人としての地位は、諸行事の序列で認識されていた。出自は桓武平氏。何も畏れ恥じる事はなかったが、重国、源氏方へ就いた経緯(いきさつ)が、いつも胸中の奥にあった。数々の軍功を挙げ、鎌倉の御家人として、のちの世に言う「いざ鎌倉」一声懸かれば、何があっても馳せ参じる御家人達。まして重国、言動を慎しみながらの忠勤だった。

 一方、義経。文治元年(1185年)10月、頼朝の追討令を受く。天を仰ぐ義経だった事だろう。後白河院、今は嘗(か)つて九郎・九郎殿と呼んでくれた院ではなかった。頼朝へも官位の餌を与えようとしていたため、義経への挙兵の許しが優柔不断となった。後白河院、言を左右にしながら挙兵を認めてくれたが…。無残かな、義経。時すでに遅く四囲の将達呼応する者少なく、挙兵の形を成さなかった。

 嘗つて修羅の道を躊躇なく進み、今は股肱(ここう)の臣達と僅かな人数で隊列を組み、歴戦の軍功を矜持の拠り所として一路、幼少より九郎義経を訓育してくれた奥州・藤原秀衡(ひでひら)を頼りの逃避行だった。

 それより少し前、都で絶世の白拍子(しらびょうし)と謳われ、晴れがましくも後白河院の臨席でも舞った静。九郎義経、後白河院との交誼(こうぎ)の過程で出会いが生まれ、愛が育まれたのか…!?成行き上、静、義経の逃避行に同行する。苦難の旅となる事は百も承知だった。既に要所に鎌倉の手が迫っていた。

 折しも分け入った吉野山は、豪雪に見舞われていた。義経、断腸の思いで、吉野の山中で信頼できる案内人を付けて京へ戻した。天網恢々疎にして漏らさず。静、不運にも鎌倉の手に落ちる。誇り高き京の白拍子、東国鎌倉までの旅、屈辱の日々だった。今は囚われの身となり、東国の果てで生き恥を晒す身となっていた。

【文・前田幸生】
 

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