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綾瀬 コラム

公開日:2018.04.06

〈第41回〉渋谷氏ゆかりのコースを訪ねる41
あやせの歴史を訪ねて
綾瀬市史跡ガイドボランティアの会

 高重、幸か不幸か、一族一党打揃っての神仏由来の祈念祈祷の行事以外、酒宴酒食を伴う歌舞音曲(かぶおんぎょく)とは無縁の世を生きてきた。鎌倉の府において有職故実(ゆうそくこじつ)に基づく年中行事への参加も何かと苦手であったが、鎌倉の府で存在感を維持するには、様々な行事への参加は必須だったが…。



 今は亡き頼朝、治承・寿永の内乱も目処が立ち、鎌倉幕府創業を目指していた頃、有職故実に通じていた大江広元を京より招聘していたが、その頃、歌僧(かそう)として歌と行脚で名を成しつつあった西行がいた。若い頃、北面の武士を務め佐藤義清(のりきよ)と名乗り祖は藤原鎌足と謂(いわ)れ、平清盛・源義朝らと、いまだ朝廷の走狗に過ぎない己らの将来を語り合った三人だったが、有為転変(ういてんぺん)は三人の運命を遠く隔ててしまった。



 義清、今は西行と名乗り、名誉も地位も捨て、歌層として生きていた。縁あって東大寺の復興に係わりを持ち、陸奥へと砂金勧進(かんじん)の為の旅の途次、鎌倉へ立ち寄った。西行この時、文治2年(1186年)、大江広元の知識を補完して陸奥へと旅立った。歌と行脚に生きた西行、建久元年(1190年)2月16日(如月の満月の夜)「願わくは 花の下(もと)にて春死なむ そのきさらぎの 望月のころ」と詠い72年の生涯を閉じた。話を元に戻すと、渋谷高重、憂患の日々が続いた事だろう。有史以来の源氏が頼朝が目指した武家政権として鎌倉幕府は、安定が保てるのか…!?瓦解へと向かうのか…!?高重、鎌倉の府でも、渋谷荘で領地巡察の折も和田氏、横山氏一党、北条氏、義時に距離を置く氏族の動静に念(おも)いを馳せていた。



 今では北条氏として執権義時、専横の振舞が露骨になり、切歯扼腕(せっぱやくわん)していたのは、和田義盛ならずとも、心ある幕閣、御家人達、如何なる存念で対応したのだろうか!?だが執権義時、今は鎌倉の府を思いのまま統御していたかに見えたが、一人頭の上がらぬ人物がいた。頼朝逝去により出家、今は鎌倉の府で尼将軍と呼ばれ、ともすれば傀儡と化した三代将軍・実朝に配慮を示し、幕閣・重臣達の合議制の政事に採決の断を下し、義時の支えとなっていた政子だった。高重、鎌倉出仕の折、運が良ければ政子の溌溂と颯爽と立ち振る舞う場面を垣間見る事が出来た。



【文・前田幸生】

 

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