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綾瀬版 公開:2018年9月7日 エリアトップへ

〈第45回〉渋谷氏ゆかりのコースを訪ねる45 あやせの歴史を訪ねて 綾瀬市史跡ガイドボランティアの会

公開:2018年9月7日

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 建暦3年(1213年)2月、泉親衡の謀議発覚以来、三浦・和田氏、別けても和田氏に対する北条義時の仕打ちは、主立った閣僚・御家人達でさえ眉を顰(ひそ)め、北条氏と和田氏の凄絶な暗闘を見守っていた。和田義盛、清廉剛直の士(ひと)であったが、駆け引きが巧みなわけでは無かった。計らずも一族の心を寄せ合った者達の一部から、義盛の動向が洩れていた。義盛とて、鎌倉の府で重きを成し幕閣を務める閣僚。初代将軍の妻、2代・3代将軍の母、北条政子の父方、遠く祖を同じくしていたが、幕府創業の頃は北条一族、力も発言力も三浦・和田一族に遠く及ばなかったのだが…。今、北条氏、義時、大きな権力を持ち、己の領土拡張の大きな障碍となっていた和田氏…。慎重を期していた義盛だったが、事が動向が洩れていたのでは躊躇している時では無かった。義盛、千軍万馬の将だった。かねてより連絡を取り合い、打合せを重ねた同志の氏族と合流している時がなかった。この時点で集まってくれた諸氏諸族の兵を引き連れて、義時打倒の雄叫びが全軍の頭上に届いていた。義盛、既にこの頃、老雄の域に達していた。この時、高重、今は命運を共にし北条家の専横を誅すべく、義盛の隊列の中で武者震いしながら、治承・寿永の戦いの頃、戦場を疾駆した自分、今、戦の場に赴きながら己の老いを禁じ得なかった。唯、命は惜しくは無かったが、三浦一族の結束に綻びが生じている事が気掛かりだった。この一番大事な時に!!和田義盛率いる軍勢は一路、鎌倉の府を目指し、主要な部署を包囲した。本来駆けつけて合流すべき大手の氏族達の到着が遅れ、義盛の作戦が胸中で齟齬をきたしていたが…!義盛、今、逡巡している時ではなかった。健保元年(1213年)5月2日、大音声に宣戦と戦いの正当性を布告した。義盛、老いたりとは言え一度(ひとたび)戦場に立てば、鎌倉幕府創業の功臣として、また侍所の別当として要職にあった将。甲冑を纏えば四囲を圧した。高重、今、隊列にあって、ここまで来た以上、微塵の迷いがあってはならないが、義盛の先刻よりの微かな不安と一致していたが…。今は唯、戦いの渦中に身を委ね、甲冑に包まれた重い身体だったが、北条方を圧倒して不死鳥の如く舞った。義盛、迂闊にもこの度の戦いに万端の準備が不足していた。助勢の遅れは別として、兵站の配慮が足りなかった。同族の三浦義村、固い誓約があったが反故にされ、心待ちにしていた来援の氏族達、北条義時の巧妙な離間策に鎌倉突入を果たせず、和田義盛、義時をあと一歩まで追い詰めるも、三浦一族の逆心の為、義時を討ち洩らす。義盛、千慮の一失だったか!?戦いは2回目に入ると、義盛側に不利となってきた。

【文・前田幸生】
 

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