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綾瀬版 公開:2019年4月5日 エリアトップへ

〈第52回〉渋谷氏ゆかりのコースを訪ねる52 あやせの歴史を訪ねて 綾瀬市史跡ガイドボランティアの会

公開:2019年4月5日

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 渋谷光重、鎌倉幕府4代将軍・継嗣(けいし)の問題で朝廷・後鳥羽上皇側と鎌倉幕府、取り分け北条義時、尼将軍政子、実朝在世の頃より後鳥羽上皇の皇子を4代将軍として推戴(すいたい)したい旨の話は仄聞(そくぶん)していたが、実朝、敢え無くも公暁(くぎょう)の凶刃に斃(たお)れ、後鳥羽上皇、実朝とのこれまでの厚い交誼、実朝を介して朝廷の影響力の延伸を心中密かに図っていたが、目論見は潰え去り、手蔓(てづる)を失った。

 後鳥羽上皇、詩歌をこよなく愛する近来稀に見る尚武(しょうぶ)の気風の強い帝だった。朝廷の権威を楯に、鎌倉幕府に何かと干渉するも流石、北条義時。伊豆韮山の弱小氏族に過ぎなかった父・北条時政、運命の邂逅があった。意図して叶う事ではなかったが、時政、流人・源頼朝の監視を命じられ、当初は困惑した事だろうが、この頃は平家の命令は絶対だった。むしろ頼朝が生きてこの地に流されて来た事を奇異に思っていたが、星霜は流れ、頼朝の旗上げに尽力。娘の政子、頼朝と縁を得て幾多の困難を乗り越えて頼朝亡き後、北条氏・一族、今は幕府を専断。公然と苦言を呈する幕閣、有力御家人は希少となっていた。

 渋谷光重、重直を筆頭に6人の息子達が今は立派に大人に育ち、渋谷の領土の開発・開拓・保全に精を出していたが平穏な時があればあったで光重、老いを感じる今日、晩節を汚してはとの想いと、未だ残っている武将の血が相克し、息子達に窘(たしな)められ、今、大きな争乱の無い事を願う反面、将たる者、一度は戦場に屹立(きつりつ)として欲しい想いもあった。

 3代将軍・実朝斃れてのち、4代将軍は初代将軍・頼朝との縁が深かった公卿九条家より頼経が下向。将軍の座に就けられた。僅か2歳の将軍だった。いかに北条政子の内意があったにせよ、北条家の義時の権力、執権・北条義時の専横に鎌倉幕府、幕閣、綺羅星の如き重鎮・御家人達、この事態に容喙(ようかい)出来なかったのか!?

 渋谷光重、渋谷一族、この情報を、状況を、当然掌中にして侃久諤々(かんかんがくがく)の激論が戦わされた事だろう。結論として高重の二の舞は避けられた。光重、治承・寿永の内乱を生き抜き、今は亡き父・重国の寡黙な言動の中での教えでもあったが…。鎌倉への出仕の折も、御家人達の中でも厳しく己を律してきた光重だった。

 また、重直をはじめ一族の者達へもそれを背中で示した。鎌倉幕府は、北条家の義時の専横が罷り通り、己は老いて気力が落ちてゆく。未だ若かった頃、諸行無常の仏教の言葉に何の感慨も湧かなかったが…。今はその言葉を噛み締める日々があった。 【文・前田幸生】
 

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