第16回「高田」 茅ヶ崎の轍(わだち) 協力/茅ヶ崎市文化資料館
江戸時代の高田村は、こぢんまりとした村で小字は大久保、六斗蒔(ろくとまき)、鶴田の三つしかありませんでした。
高田村には1866(慶応2)年の絵図が残っています。それには、村の北端は大山道で区切られ赤羽根村と接し、大山道に沿って10数軒の民家と山王社と鎮守の熊野社(くまのしゃ)が描かれています。村の中央は広く田です。南端の字鶴田にも民家が見えます。かつて3軒の民家があり、口遊び歌に「大山千軒、須賀(すか)千軒、南湖は三百六十軒、高田の鶴田はただ三軒」と歌われました。
鎮守について『皇国地誌』には「1658(万治元)年に領主の大岡隼人が紀伊国の熊野神社本宮を勧請した」とあります。熊野社(現在の熊野神社)は、拝殿前に手洗石があり、「信州(現在の長野県)高遠城下藤澤郷石工守屋喜八」と石工名が彫られています。藤沢の地名は、今も高遠町に残っています。江戸時代から石工が多かったところで、徳川家康の命によって江戸城工事にも関わったといわれています。高遠藩では苦しい財政事情から、出稼ぎを奨励しました。石工たちの足跡は、長野県内はもちろん群馬、山梨、東京、静岡、岐阜、神奈川、愛知などに及んでおり、その一人の作品が本市にも残されています。
【参考文献/茅ヶ崎市史1】
|
<PR>