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公開日:2022.04.21
新連載
鎌倉殿と平塚の七人 Zoom up
第3回 豊田次郎景俊と大庭兄弟
平塚市博物館が公式YouTubeチャンネルで公開している、鎌倉幕府創業に関わった郷土人物を描く動画「鎌倉殿と平塚の七人」。本連載ではこの企画とコラボし、本編動画と関連したエピソードを紹介します。
◇ ◇ ◇
豊田景俊は、「鎌倉党」武士団の一族です。大庭氏は現在の藤沢市域と茅ヶ崎市域を含む荘園「大庭御厨」を管理する豪族ですが、次男の景俊は平塚市域の豊田に館を構えて豊田の次郎を名乗りました。世に知られる景俊の兄弟は4人。石橋山の合戦では、兄の懐島景義と景俊は頼朝とともに戦い、弟の大庭景親と俣野景久は平家方として戦います。
大庭景親は平家方の旗頭として一方の主役ですし、兄の景義には保元の乱の時に強弓で知られた豪傑源為朝を挑発して、その矢で膝を射抜かれたという武勇伝があります。東国随一の怪力と言われた弟景久は、景親が捕縛された後も関東を脱出して京に向かい平家軍の一員として戦います。こうした押しの強い兄弟の中で次郎景俊は目立たない人物です。吾妻鏡で登場するのは石橋山に着陣した頼朝軍のメンバー紹介だけですから、残念ながらここで討死してしまったのかもしれません。
大庭家が経営する荘園「御厨」の領主は伊勢平氏と関係の深い伊勢神宮です。一方、源氏の棟梁との主従関係を重視する坂東武士の気質は根強く、中でも鎌倉党は伝説の武将である鎌倉権五郎景政以来、源氏に忠実な家としての立場もあります。こうした大庭家が考えた兄弟の役割分担。懐(ふところ)島(じま)権守(ごんのかみ)と呼ばれた兄景義が公的機関の担当として源氏との窓口になり、大庭御厨を担当する景親が平氏政権とのパイプ役を務めたのでしょう。しかし、これが後に不幸な結果を招くことになるのです。
保元物語では為朝の矢を受けた景義を最前線から助け出したのは景親だとしています。それから24年、敵味方に分かれてしまった兄弟の姿を景俊はどう見ていたのでしょうか。非情な運命に苦悩する物静かな次男の姿が目に浮かんできます。
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