神奈川県全域・東京多摩地域の地域情報紙

  • search
  • LINE
  • MailBan
  • X
  • Facebook
  • RSS

語り継ぐ戦争の記憶 ―シリーズ 終戦70年【10】―

社会

公開:2015年5月2日

  • X
  • LINE
  • hatena

 終戦70年を迎える今年、小田原に残る戦争の記憶を、人・もの・場所を介してシリーズで綴る。第10回はひっそりと佇むプロペラ型の碑(市内沼代98付近)。旧日本軍の上原重雄中佐の壮絶な戦死を記している。

 1945(昭和20)年2月17日、愛川町の第22航空戦隊長として上原中佐が着任して間もなくのこと。相模湾沖に進行した米軍航空母艦から発進した戦闘機600機が関東を襲った。米軍は本土の目標に超低空からの集団攻撃をしてきた。

 翌日の午前10時頃、南下してきた大編隊の群れが、上空を我が物顔で米軍機が飛び交っていた。その日は、上原中佐らの部隊は朝鮮平壌への移駐が決まり、軍からは迎撃中止が命じられていた。しかし上原中佐は敵機の振る舞いに祖国の行く末を案じてか、部下隊員らを格納庫になだめおき、独り大空へと飛び立っていった。

 大群の中への単機特攻。不運にも被弾し、機は相模湾上空で反転。飛行場への帰還に向かったが、後続隊との挟み撃ちに遭い上空で炎に包まれた。碑には、中佐の最後について『天蓋から身を乗り出して北方の皇居に両手を上げ決別。そのまま機とともに自爆し壮絶な戦死を遂げた』と記されている。当時を知る高齢者らは、映画さながらの壮絶な空中戦を「走って見に行った」と口々に話した。

 スマトラ島のパレンバン航空隊を拠点にニューギニア戦線まで遠征し活躍、B-17爆撃機を迎撃するなど「偉勲の戦士」とも称された上原中佐。碑は中佐の搭乗機「疾風」の残骸を陸軍が回収しに来た際に、「偉勲の戦士」の最後を見届けた農家の1人がプロペラを隠しておき、碑を作ったのだという。

 2011年、墜落現場が草で覆われていたことから、「みんながお参りできるように」と碑を作った農家の子どもの手により約2キロ離れた場所へ移設された碑。以来、上原中佐を偲んで献花に訪れる人が後を絶たない。

 現在遺影は福泉寺(沼代547)で保管されている。同寺の野田隆生住職は「数年前、娘だという女性が手を合わせに来られた。『その時』、お腹の中にいたのかもしれない。ほんの70年前にこんなことがあっただなんて」と言葉を詰まらせた。
 

享年28歳。上原中佐の遺影
享年28歳。上原中佐の遺影

戦後70年 語り継ぐ戦争の記憶

タウンニュースの各発行エリアで企画・編集した関連記事まとめ

http://www.townnews.co.jp/postwar70.html

小田原・箱根・湯河原・真鶴版のローカルニュース最新6

商議所が合同入社式

商議所が合同入社式

21事業所124人が参加

4月20日

シネマ館で金次郎鑑賞

シネマ館で金次郎鑑賞

城北RCが市民招き企画

4月20日

相撲取って力比べ

参加募集

相撲取って力比べ

5月4日、早雲杯を初開催

4月20日

親なきあとを支援

親なきあとを支援

 ミニセミナー

4月20日

出馬予定者が討論会

小田原市長選

出馬予定者が討論会

小田原青年会議所が主催

4月20日

求む、纏の振り手

求む、纏の振り手

舞台は北條五代祭り

4月20日

意見広告・議会報告政治の村

あっとほーむデスク

  • 4月20日0:00更新

  • 4月13日0:00更新

  • 4月6日0:00更新

小田原・箱根・湯河原・真鶴版のあっとほーむデスク一覧へ

バックナンバー最新号:2024年4月20日号

もっと見る

閉じる

お問い合わせ

外部リンク

Twitter

Facebook