終戦70年を迎えた今年、小田原に残る戦争の記憶を、人・もの・場所を介してシリーズで綴る。第37回は、食料確保に奔走した守屋隆男さん。
畳屋を営んでいた実家は、ものを買うための収入はあった。しかし、戦時中は肝心の食料が手に入らず、苦しんだ時代だった。「とにかくさつまいもをよく食べた。今考えればうそみたい」。当時を振り返り、苦笑を浮かべた。
太平洋戦争直前の1941年に米の配給制が始まり、消費量が制限。その量も徐々に削減され、1日1人あたり2合ちょっと。44年ごろには、ついに配給自体が終了。守屋少年が新玉国民学校(現・新玉小)6年のときだった。食料不足を補うため、学校の校庭では面積の半分を使ってさつまいもを植えた。
母は農家に足を運び、着物や帯と農作物を交換してもらった。米に変えてもらえることはほとんどなく、さつまいもか、よくて他の野菜。「それぞれが生き延びるのに必死。親しくしていた農家でさえ、米は譲ってもらえなかった」という。食卓にのぼるさつまいもごはんも、米粒がほとんど見えないほどだった。
食料を求め、母と電車で函南(静岡県)にも出かけた。見ず知らずの農家を訪ね、米や野菜を購入。小さな体に背負うリュックいっぱいにつめこんだ。米は細長い袋に入れて腰に巻きつけ、上着で隠した。そこまでしなければならなかったのは、函南駅前で統制品を取り締まる警官がいたから。駅近くの山から様子を伺い、警官がいなくなるのを見計らって改札を抜けた。「それでも3回に1回ぐらいは捕まった。没収ですよ。お金を捨てたようなもの」
家業の商材であるゴザ20枚を麦1俵と物々交換するため、南足柄までリアカーを引いたことも。「小学生が1人で来たのを見てか、麦が米に化けた」と歓喜に沸いた。終戦の年には中学生となり、久野での陣地構築にも加わった。食料はさらにひっ迫。イタドリ、ハコベ、オンバコ、セリ。野草を持ち帰り、茹でて口にした。
戦後、守屋さんは体に湿疹ができた。栄養失調。箱根の温泉に1年通い、完治した。「いろいろなものを食べてきてよく生きているなぁ」と話しつつ、思うことがある。「あの時代を生きたからこそ、ものを大事にしなければ」と。