南神奈川大会の決勝で敗れ、あと一歩届かなかった甲子園――。鎌倉学園高の野球部の捕手で、主将としてチームを率いた西畑侑飛(ゆうひ)君は今夏、受験勉強の合間にテレビで熱戦を見つめた。「もし他の県だったら出場できたのかな……」。そんな思いも脳裏をよぎった。
だが、悔いはない。OBや地元の人も詰めかけた満席のスタンド、グラウンドを揺らす大声援、「スーパースターの集まり」と敬意を払う横浜高との決勝戦。「すべては野球が盛んな神奈川、伝統校の鎌倉学園にいたから味わえたもの。今までも、きっと今後の人生でもない貴重な経験だった」
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町田小3年生の終わりに鴨宮コンドルズで野球を始め、白鷗中時代には秦野シニアで白球を追った。地元の高校と迷った末、進学先に選んだのは鎌倉学園。「勉強も野球も一生懸命やりたい」。それが決断の理由だった。
ともに入部した26人の仲間と描いた当初の夢は、甲子園ではなく「ハマスタ」。県大会の準々決勝以降の会場となる横浜スタジアムで戦うこと、すなわちベスト8が現実的な目標と考えていた。だが、そんな姿勢が竹内智一監督と衝突する原因にもなった。
西畑君が主将に選ばれ、新チームが始動してまもなくのこと。「根性練」と呼ばれるきつい練習に、部員たちが音を上げたのだ。本気で甲子園を狙うつもりがないのであれば練習は強要しないという監督の方針に、「根性練がなくなった方が良くね?」と部員は一致団結。甲子園はあくまでも「夢」と監督に伝えると、にわかに練習量は軽減した。
だが、直後の秋季大会で県ベスト4に進出。嫌がっていた根性練の成果が結果に表れたのだ。「チームにとって大きな転機だった」。監督との絆はゆるぎないものになり、明確な目標として甲子園を目指すようになった。
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自身は今春、わずか1カ月の間に左腕と右手指を相次いで骨折。「夏は間に合わない…」。絶望の淵に立たされながら、「待ってるぞ」というチームメイトの声を励みにリハビリを続け、最後の夏に再びグラウンドに立った。練習でクタクタになった後も部室に残り、毎日飽きもせず語り合った仲間たち。野球を通じて得た一生の宝物だ。
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「赤点をとらないのがやっとだったから……」。涙の引退から約2カ月。バットを鉛筆に持ち替え、放課後も約8時間机に向かう。「まずは目標の大学に合格すること。野球のことを考えるのは、それからかな」。慣れ親しんだ坊主頭は「ミディアム」まで伸ばす予定だ。
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