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公開日:2023.08.12
小田原出身廣枝音右衛門
玉砕令背き「生きて帰れ」
戦地で台湾人に生還促す
小田原から台湾に渡り、現地兵と太平洋戦争末期のフィリピンへ向かった警察官、廣枝音右衛門。激化する戦況下、台湾兵を生還させようとした音右衛門の行動は日本であまり知られていないが、現地では慰霊祭が毎年開催されるなど、台湾の歴史に刻まれている。
音右衛門は1905(明治38)年、当時の足柄下郡根府川村で9人きょうだいの4男として生まれた。現在の片浦小学校から逗子開成中学、日本大学へと進学。陸軍に入隊し、後に湯河原町の教員となった。25歳の時、日本の統治下だった台湾の総督府警察官試験に合格して海を渡った。
温厚な人柄から、島民からも愛された音右衛門。2男2女の子どもも授かり、警部に昇進した矢先の1943年、日本が占領していたフィリピンの治安維持を目的とした「海軍巡査隊」総指揮官として現地に赴いた。総勢2000人の隊員には相当数の台湾人有志も含まれていたという。
当初は治安維持や物資運搬などを任務としていた巡査隊だったが、戦況のひっ迫により「海軍防衛隊」へと編入される。音右衛門らも圧倒的な戦力でフィリピン奪回を進める連合国軍と対峙することになっていった。
「責任は私が取る」
45年初頭に本格化したマニラでの戦いで追い詰められた防衛隊は音右衛門率いる巡査隊から武器を回収。引き換えに出されたのが、棒に縛り付けた地雷や爆弾、そして「その場で玉砕すべし」との指示だった。
戦車を相手に生還する者などいない日本軍の戦い。そんな中でも音右衛門は人道主義を貫き、隊員に指示を出すことはなかったという。
同年2月下旬、相手からの降伏呼び掛けが始まると、音右衛門は最後の決断を下す。台湾人兵士に対し「君たちが玉砕することは犬死に等しい。家族が待つ台湾に必ず帰り、国の再建に努めろ。玉砕命令に背いた責任は隊長である私が取る」と投降を指示。防空壕に入り、拳銃で自害した。
※ ※ ※ ※ ※
音右衛門の行動、そして捕虜になった部下の多くが台湾に生還した事実は、長らく日本に伝わることはなかった。それが知らされたのは、戦後の騒乱から落ち着きが戻った1970年代中頃、茨城県取手市で暮らしていた音右衛門の妻・ふみさんの下を、台湾の元義勇兵が訪問したことなどがきっかけだ。
ふみさんから小田原の廣枝家にも話が伝えられ、台湾北部の寺院で音右衛門の慰霊祭が行われている事実も知った。「父親ら親族が88年に元義勇兵の方や祀られている寺院を訪ねました」と話すのは廣枝徳子さん(72)と了三さん(70)夫妻。音右衛門は徳子さんの大叔父にあたる。
了三さんと徳子さんも90年、現地を訪問。「連絡先も分からず突然の訪問でしたが、多くの方々に歓待してもらった。大きな位牌の前で拝んでいる方もいて、どれほど慕われているかが分かった」と2人は振り返る。
正義の足跡残したい
今、了三さんと徳子さんが望むのは、正義を貫いた人物が小田原にいた事実の継承だ。「日本に身一つでたどり着いた家族に残された資料は少ないが、今その足跡を整理しないと」と了三さん。
小田原市では昨年6月議会で音右衛門を含めた市内の偉人顕彰を求める声が挙がった。9月に行われている台湾の慰霊祭に今年、市議有志が参加も検討するなど、ようやく小田原でも機運が生まれつつある。了三さんは「玉砕令に背いた彼の行為は当時、否定されたはずで、無念だったであろうと思う。やはり戦争は抑止しなければならない」と話している。
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