寄稿 鎌倉殿と県西地域 第2回 頼朝の命を狙った男(曽我兄弟の仇討)
頼朝は生涯で死を覚悟した場面が三度あった。一度目は平治の乱で捕まったとき、二度目は石橋山の戦いに敗れたときである。いずれも、人の巡り合わせで助かったと言われている。運の強い人である。
三度目は一一九三(建久四)年五月二十八日、富士野の巻狩りで曽我兄弟の仇討に遭遇したときである。
曽我物語では兄弟は宿願の父の仇、工藤祐経を十八年後に討ち果たした。だが兄の十郎祐成は、警護の武士たちと死闘の末に頼朝の家来、仁田忠常に討たれた。弟の五郎時致は、「頼朝公のお側近くまで参上しろ」という兄の死に際の言いつけを守り、頼朝の寝所めがけて一目散に走り込んだ。しかし寝所に宿直していた大友能直が、頼朝を守って五郎の前に立ちはだかった。最後は女のなりをして潜んでいた怪童、五郎丸に搦めとられる―というのが、物語の山場である。
だが、本当のクライマックスは翌日に行われた裁判の場面である。頼朝の前に引き出された五郎は、鎌倉殿の直々の尋問に臆することなく仇討の理由を堂々と述べ、居並ぶ重臣たちを感動させた。
中でも頼朝自身は、兄弟の真心を聞いて魂が震えるほど感動し、五郎の命を救おうとするが祐経の遺児、犬房丸が泣訴したために、止むを得ず五郎に死罪を命じた。
後に頼朝は兄弟の孝心と勇気を称揚して、後に残った母のために曽我の荘の年貢を免除し、二人の供養をするように命じたと伝えられている。
大友能直は曽我兄弟と同世代で、兄十郎と同じ二十二歳であった。下曽我と能直の育った東大友は直線距離にして二キロほどである。もしかしたら曽我兄弟と能直は幼少期にこの里で会っていたかもしれない。
参考文献/曽我物語、吾妻鏡
■お花畑/曽我館跡の東北で兄弟の首の骨を最初に埋葬した跡(下曽我)
■大友能直館跡/(東大友)