その日のことは、今もよく覚えている。自宅の広間で父と2人、真空管式ラジオに耳を傾けていた。雑音が激しく聞き取りづらかったが、父の「戦争が終わった」という一言に言葉を失った。「最後の1人まで戦い抜く、と教えられてきた。竹槍でやるつもりだったのに」。1945年8月15日、当時16歳だった。
「死ぬことが怖くなかった。そういう教育だった」。戦況の良かった42年頃、ラジオから流れる「(敵機を)撃墜、我が軍の損害軽微なり」という言葉に胸を躍らせた。職業軍人になる、と決めていた。6つ上の兄が22歳で召集されたのは44年6月のことだ。「教育召集で、どこに配属になったのかはわからない」。30通ほど届いたという手紙には「親を大事にしろよ」と綴られていたことを記憶する。
同じ頃、勤労奉仕であちこちの農家を転々とした。伊勢原市の大山阿夫利神社近くまで、1週間泊まり込んで勤めたこともある。毎日のように空襲があったという旧制中学4年の時、陸軍田奈弾薬庫(現・こどもの国)付近にB29が墜落。出征兵士の家で畑仕事をした帰りに見に行くと、機体が落ちた直径200mほどが焼け野原になっていた。「大人たちがリヤカーで死体を運んでいてね。異臭がした」。機体の破片が散らばる中、泥の中に米兵のはらわたを見つけた。ちぎれ落ちた腕を、思わず棒で突いていた。「ちくしょう!という気持ちだった。今もはっきり覚えている」
終戦後の49年、兄の戦死公報を受け取った。渡されたのは高さ20cmほどの白い箱のみ。中には位牌だけがあり「遺骨も、髪の毛すらもなかった。本当に死んだのかもわからない」。フィリピンのルソン島で散った兄を思い、現地を訪ねたこともある。父の後継として青葉区戦没者遺族会に入り、会長に就任。遺族の世代が変わり、全国的にも会員が減っている現状を憂う。「自然風化もやむを得ない」と言葉少なに話す。「国のために亡くなった人が気の毒。世界平和を願いたい」
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映画で学ぶ英会話4月18日 |
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