青葉区 社会
公開日:2025.08.14
歓声の中、眠る傷跡
こどもの国・弾薬庫跡
開園60周年。広大な自然の中に広場や遊具、牧場があり、地域の人の居場所として愛されている「こどもの国」。内周道路沿いを歩いていると時折、緑の扉で閉ざされた洞窟のような入り口が目に留まる。これらは第二次世界大戦中、戦地に送る弾薬を保管・発送・製造していた「旧陸軍田奈弾薬庫補給廠」の名残だ。同園もまた、戦争の記憶を語り継いでいる。
同敷地は、「軍都」として発展した相模原へのアクセスも良く、米軍が相模湾から上陸した際の首都攻防戦の拠点として期待された。1938年に農家13軒の立ち退きが命じられ、建設に着手。41年には旧陸軍田奈部隊が発足した。
敷地内には、33の半洞窟式弾薬貯蔵庫の他、各作業場や貯水池、陸軍兵器学校の分校があった。現在、10数基のみ確認できる貯蔵庫は、一部を除いて閉鎖されている。その入口が、今も点在する緑の鉄扉だ。県立横浜第二中学(現・横浜翠嵐高校)と神奈川高等女学校(現・神奈川学園)の生徒が駆り出され、砲弾や地雷、手りゅう弾などが作られていた。
園内には、いくつかの防空壕跡も残っている。空襲警報が鳴ると、学生たちは防空壕に火薬を運び込み、その間に身を潜めて過ごしたという。幸い、空襲の被害に遭うことはなかったが、輸送中の爆発や通学中の事故によって犠牲になった命もあったそうだ。正面入口そばの高台・白百合の丘に佇む「平和の碑」は、当時の女学生によって96年に建てられたもの。自分たちが作った砲弾で命を落としたかもしれない人々と、平和への祈りが込められている。
終戦後、米軍に接収されていたが61年に返還され、65年5月5日に開園した「こどもの国」。子どもたちの歓声に囲まれて、今も戦争の傷跡がひっそりと眠っている。
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