大正末期〜昭和の北山田から 第19回 都筑区の歴史を紐解く 文・絵 男全冨雄(『望郷』から引用)
お祭り
お祭りには、青年会が主催で手作りの御神輿を作った。倶楽部に夜集まり、各自作業を分担して製作した。担ぐ台を作る大工仕事がすむと、俵三俵を用意し、中に土とオガクズと混合して詰め、上に四斗の酒樽を乗せ、草鞋(わらじ)で鳳凰を作り、渋団扇(しぶうちわ)で羽を作り、紅白の太い化粧縄で飾り、重い大きな立派なお神輿を、約十日間で作った。
山車も大きな立派なものでした。牛車で引く山車には、笛・太鼓のお囃子が乗り、農道をお神輿の後に続いて練り歩く、のどかな祭りでした。
その当時はお酒はなく、禁制品のドブロクを幹部が苦労して作り、振る舞ったのです。どこの部落でもドブロク作りは隠していたのですが、密告する人がいて、隣り部落より幹部の方が自転車できて取締調査がありそうなので急ぎ隠すようにと、連絡してくれた。
急いで密造小屋より裏山の墓地に担いで隠した。
でも、小屋には臭いが染み着いているので多少残しておいたら、捜査官が見えて、「他には無いね」と念をおして帰った。
捜査官は「密告があれば捜査しなければならない。物資がない中、我々もつらい。事故がないようお祭りを楽しんで下さい」と別れたと聞く。
連絡をしてくれた隣り部落では、幹部の方が逮捕され翌日釈放された。
お祭りは山田三部落で揃って盛大に行われた。自分たちが逮捕されても、隣り部落を救ってくれた当時の隣り部落の役員には、感謝致しました。
私らは青年会に入って間がなかったので、夜十一時頃解散して残り少なくなった時、幹部に「酒がたりない、お前、ドブロクを取ってこい」と言われ、一人で山の中のお墓まで一升瓶を下げて取りに行った。周りがお墓で真の闇、心細くてドブロクはなかなか瓶に入らない。暇がかかったが、持ちかえらなければ怒られるし、夢中でドブロクを瓶に入れて届けた。
お神輿を担ぐ者はほとんど酔っぱらいのため難航したが、不思議と怪我は少なかった。一軒づつ回るので、接待に提供されるお酒やドブロクが飲みきれず、役員が車で集めて歩いていた。
警備の消防団も大変であった。泥酔者の保護に追われながら、安全な誘導、お酒所の警備と、よく奉仕していた。
特に、三山田の御神輿が神社参りに行く時は、時間を調整して行かないと御神輿どおし鉢合わせしてしまう。小競り合いしないよう、役員は汗だくで誘導していた。
神輿に田圃などが多少荒らされても、神様のお通りだと黙認されていた。
良き時代だった。
(つづく)
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