大正末期〜昭和の北山田から 第22回 都筑区の歴史を紐解く 文・絵 男全冨雄(『望郷』から引用)
狐火
青年学校の夜学の帰りは十時頃になった。
仲間がいる時はよいが、週番の時は遅くなり、一人で大善寺のお墓の中を通る相(あい)の原(はら)(地名)の二キロくらいは、一軒の家もない山の間の原っぱで、男とはいえ気味悪かった。誰か後を付けている錯覚になり、銃剣を握り、夢中で駆け抜けた。
ある時、遅くなり、同志と二人、南山田から堀之内を通り田向屋(たむかい)の地蔵様のところまで帰ってきた時、山田富士の前の松山の上に、火の玉が無数に動き出した。
私らは呆然として見ているうちに寒気がして、「おい、あれは狐火ではないか」と顔を見合わせてしまった。古老から、狐火が見えた時、狐は足下にいるんだと聞かされていた。狐は煙草が嫌いなので煙草を吸えばいなくなる、と言われたことを思い出し、先輩が隠し持っていた古い煙草に火を付けて吸ったら、煙草にむせて、その方が大変だった。
戦前は動物は多かった。私が小学校の頃、ある夕暮れ、母に明日遠足なので稲荷寿司を作ってやるからと、田向屋に油揚げを買いに行かされた。たしかに買って風呂敷に包んだが、帰ってみたら一枚しかない。途中落としたのではないかと、戻って探してみたがない。油揚げは狐の大好物である。どこで狐にとられたのか分からないがなくなっていた。
おかげで遠足の稲荷寿司は、煙になってしまった。
故郷が消え、狐、狸、兎などの動物はどこに仮移転したのだろうか。
換地になって帰ってくる山も、気難しい人間の公園になり、寂しい。
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