大正末期〜昭和の北山田から 第30回 都筑区の歴史を紐解く 文・絵 男全冨雄(『望郷』から引用)
高等科から青年学校
一年一学期が終わらぬうちに先生は召集され、自習が続いた。
先生は次々戦地におもむき補充がつかず、その上、学校は軍隊に占領され、生徒は各公民館、神社、お寺に分散授業が行われた。教科書、帳面、鉛筆、食糧不足がせまり、弁当を持って来れない生徒がだんだん増え、さつまいもを持ってくる者は良い方だった。
家庭も手不足になり、学校に赤ちゃんを背負い勉強に来る生徒が増えた。
今思うと、日本全国の生徒は、”おしん”だったと思う。
その当時の教育は耐えることを一番学んだと思う。それが今日まで、いや一生続くだろう。
学校ははじめ重機機関銃部隊が入り、一階部分は床をはがし倉庫になり、他には兵隊が入った。校庭は馬小屋になり、完全な兵隊屋敷になった。
ほとんどが召集老兵で、今思えばかわいそうだった。将校も不足が目立ち、自分の子供みたいな学徒即席将校に往復ビンタをくい、訓練に明け暮れていた。
ちょうどその頃、中川青年学校は銃剣術では県下一を誇る優秀校だった。防具も百五十セットを保有、一年は木銃、二年は模擬銃、三年は模擬銃と牛蒡剣、四年は三八式歩兵銃、牛蒡剣、薬莢、訓練により背嚢を背負い、装備も県下では右にでる学校はなかった。
召集兵と青年学校生徒と銃剣術の試合が校庭で行われたが、親子みたいな取り組みでは結果はわかったようなものであった。
みじめな老兵は気合いも入らず、生意気な即席学生将校には腹が立った。
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