大正末期〜昭和の北山田から 第37回 都筑区の歴史を紐解く 文・絵 男全(おまた)冨雄(『望郷』から引用)
送別会【2】
でも、まだ壮行会ができた方はよかった。終戦間際は、入隊するにも、壮行会は禁止、送っていくには付き添い一名だけ、それも出かけるには、夜中密かに出かけ入隊すること、また部隊手前五百メートルで付き添いは禁止、という処置がとられた。
そんな思いをして勇躍日本の防人として軍務についた青年は、ほとんど南方海上で撃沈され、海の藻屑と化した。
戦わずして二十の青春を散らした思いは、いかばかりであろう。
戦没者の合同葬儀
中川地区から二百数十名の戦死者をだした。
最初は遺骨遺品が現隊から届いたが、戦況が進まぬ頃から遺骨すら無かった。
一番最初に無言の帰還をされたのは、北山田の田向屋の主人小泉一郎さんでした。支那事変当初の犠牲者で、部落総出で市境の野川まで、夕方、遺骨の出迎えに行きました。市境まで現隊の兵隊さんが付き添ってこられ、暗闇の静寂の中、父が吹くラッパの国の鎮めのもの悲しい吹奏は今でも耳にあります。
中川地区八カ町村での戦死者の合同慰霊祭が、中川小学校校庭でたびたび行われましたが、戦死者が多く、空襲も激しく、大勢集まることは危険になり、各町で行われるようになりました。
青年学校四年生は、遺骨の出迎え、葬儀と、小銃着剣で警護を担当しながら、何時か俺も迎えて貰う立場になるのかと、祭壇の写真を見ながら同志と語り合っていた。
最初の頃はそれらしく告別式ができたが、終戦間際は遺骨はなく、遺髪さえ届くことはなかった。何処でどうのように戦死したのか、敗戦色濃くなっていた当時はわからなかった。軍から位牌の引き取りも二名程度に制約され、細々と告別式が行われるはめになってしまった。
毎年お盆になると、異郷の戦野で誰にも看取られず、家族を思い、望郷の念強く、息を引き取った方々に南無阿弥陀仏を唱えずにはいられない。
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