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都筑区 コラム

公開日:2020.02.06

大正末期〜昭和の北山田から 第39回
都筑区の歴史を紐解く
文・絵 男全(おまた)冨雄(『望郷』から引用)

  • 空襲のない時は、隣近所で消火訓練をして空襲に備えた。

空襲【2】



 秋の彼岸にお墓の線香立て作業をしていた時だった。艦載機(かんさいき)が吉田橋付近の工場を攻撃していたが、まぐれた敵機が飛来し、頭上で物体を落とした。新型爆弾と思い、畦にへばりつき、爆発を待ったがなかなか爆発しない。それもそのはず、艦載機の補助タンクだった。



 五月二十九日の横浜大空襲は焼ける煙で太陽が隠れ、日蝕が続いているようだった。その煙の中を、ゆうゆうとB29が手が届くかと思われる低空で、よくもこんなに飛行機があるかと思うくらい、我がもの顔に飛んでいた。ニュースを聞かなくても横浜全滅が黒煙でわかった。



 そして幾日かたって、私は磯子の競馬場へ馬の検査に行った。地図を頼りに馬に乗り、朝暗いうちに出かけ、ようやく競馬場に着いた。焼け野原のため、目標になるものがなく、空襲になったら駆け込む場所がないので心配したが、往(い)きは無事だった。



 検査を終え、早く帰ろうと思い競馬場を出たとたん、空襲になり、急いで山の崖下に飛び込んだが、その山の上に高射砲陣地があり、突然砲撃を開始した。驚いた馬は崖下から道路に飛び出して猛烈に駆け出し、ようやくなだめ、避難場所を探してことなきをえた。焼け野原の市中に来ると、とっときの戦車が三台、地響きをたてて、移動していた。おそらく本土上陸に備えて、空襲の合間の移動だろう。家に夕方やっとたどり着いて、横浜は海まで何もなくよく見えるほど焼け野原だと、夕飯を食べながら話した。

 

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