大正末期〜昭和の北山田から 第41回 都筑区の歴史を紐解く 文・絵 男全(おまた)冨雄(『望郷』から引用)
空襲【4】
その家は焼夷弾が本体の状態で二十四本束ねたまま台所に落ちてしまい、手の施しようがなかったようです。もう一方の家も手の打ちようもなく、また、貴重な農機具の発動機の燃料が格納してあったため、それに火が着き爆発を起こし、もの凄い黒煙を吹き上げ、たちまち全焼してしまった。
海軍倉庫も全滅、防空部隊も狂ったように応戦していたが、弾がつきたか、破壊されたか、沈黙していた。後日、焼夷弾のカラ、不発弾をひろい集めたら、一メートル五十センチの高さに三十メートルくらいあった。とにかく夜の空襲はきれいだった。サーチライト、曳光弾、照明弾、砲弾の炸裂、燃え盛る炎、威圧するB29の巨体、言葉には言いつくせない様相で、二度と遭遇したくない。
十九年頃、青年会、馬引組合などで、田奈部隊(今のこどもの国)へ勤労奉仕に行った。田奈部隊は陸軍の弾薬庫であり、全面積の山は地下弾薬庫になっていた。
今の鉄道は弾薬輸送鉄道で、入口の所に衛兵所があり、警備が厳しく、また、駅のホームには砲弾が薪を積み上げたようにぎっしり並んでいた。地下庫には幾重にも両側に棚を作り、砲弾爆弾が並べられ、不気味であった。その中でたびたび空襲があり、奉仕員は山の中に隠れたが、山の下は弾薬庫で、爆撃されれば跡形もなく吹っ飛んでしまうだろうとあきらめていた。
B29の編隊に迎撃する防空部隊、とっておきの戦闘機がいくら撃っても落ちない敵機に猛然と体当たりし、火だるまになって落ちていくのを目の当たりに見た。帝都防衛の責任感から我が身を捨てて、落ちぬB29に弾も使い果たし、やむにやまれず弾となって散っていった戦闘機を何機も見た。
それでもB29は、やたらに落ちなかった。狙われるはずの田奈部隊は一回も爆撃されなかった。終戦後聞いたが、優秀な弾薬庫なので、米軍が使用するため、破壊しなかったのだそうです。
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