大正末期〜昭和の北山田から 第45回 都筑区の歴史を紐解く 文・絵 男全(おまた)冨雄(『望郷』から引用)
物資の不足【3】
今でも、仏教のお坊さんの修業では、茶碗にお湯を注ぎ、たくわんで洗い飲み干すと言われます。よく今の若い者は汚いと言いますが、自分が食べた茶碗が汚いのなら、食べることはないと思う。娯楽は何もなかった。芸能界の方は軍の慰問にかりだされ、ラジオも隣組に一台あればよいほうで、情報も良い戦況以外なかなか流れず、しかし、目の前で、東京、横浜が丸焼けになり、迎撃する戦闘機も飛ばなければ戦況不利はわかってきた。
終戦
父が城山より養子にこられてから桃栽培が行われた。綱島の桃として有名だった。収穫は六月から七月にかけて行われ、短期間のため、忙しかった。桃の収穫中だった。夜中まで残業をしていた時、新屋の清助さんに召集令状が届いた。忘れられぬことだ。
清助さんは二回目の召集であり、今度は生きて帰れぬと家で心配しているから、すぐ帰るよう勧めたが、朝二時頃まで手伝っていた。おそらく、今生の別れとの思いが強かったのではなかったか。終戦のふた月前、食料不足に桃栽培はけしからぬということで全部伐採したら、終戦になり、何もかも終わった。
八月十五日、重大放送があるといわれ、ラジオを聞いた。雑音が入りよく聞き取れなかった。夕方になってようやく、戦争が終わったのだと思われた。空襲のサイレンが鳴らず、飛行機も飛ばず、急に静かになり、何かしら呆然となり、気が抜けてしまい、仕事も手がつかなかった。
終戦の夜、倶楽部で同志と銃剣術をしてうさばらしをした。これからどうする、と青年団で激論を交わした。その頃デマが横行し、男は殺される、女は辱めを受けると言いふらされ、かなり動揺していた。とりあえず、女子供は箱根に逃がそうと真剣に考えた。馬の背に焼き米、必需品を乗せて準備したが、実行しなくてよかった。情報が今のようにあれば考えられぬことだが、世の中が変わる時代の出来事だ。
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