大正末期〜昭和の北山田から 第48回 都筑区の歴史を紐解く 文・絵 男全(おまた)冨雄(『望郷』から引用)
復 員 【2】
庭には、復員届けの用紙をもらいに復員兵が来ていたが、なにせ家の中に軍刀を引っさげた軍曹の階級章をつけた下士官が血走っていては、「復員しました」と言えず、待っていた。
帰り際、庭でまだ、復員兵に「お前は何処の部隊か。全員解散したのか」、と問いつめていた。
この下士官は山田の出身で、戦後役所に勤め、定年後、町会組織に奉仕されていた。
それから続々、大陸から、南方から、復員兵が帰ってきたが、戦死した家族には言葉もなかった。
息子は、夫は、何のため戦死したのか、慰めの言葉も見つからぬ。
中には、硫黄島が玉砕したので師団から戦死の公報が届いてお葬式をすませた方が帰ってきた話もあった。
公民館で青年会の会合を開いていた時、暗闇の桜の木の下に復員兵が遠慮がちに立っており、役員が近寄って見ると、戦死したはずの方なのでびっくり。その方の弟さんが会合にきておられたので、急いで家からお母さんを連れてきて対面させた。
その方は除隊解散ならぬうちに、噂で横浜は全滅と聞かされていたので心配になり、そっと確かめに抜けてきたと言う。役員さんが自転車で綱島まで送り、現隊のある横須賀まで送っていきました。
数日してその方が、自分の墓標を担いでお世話になりましたと、墓地から帰りに寄られました。
玉砕した島でよく生きられたものだと、お話を聞きましたら、硫黄島は艦砲射撃で地形が変わってしまったそうです。仕方なく洞窟に潜み、夜襲攻撃を続けていたが、ほとんど戦死してしまい、洞窟の中は兵隊の死体で踏み場もないくらい。
食料はなく、爆撃で草もなく、残された兵隊も栄養失調で次々亡くなり、最後は戦友の屍から出るウジムシをひろい食べていたそうです。
悲惨という以外、言葉になりません。
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