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都筑区 コラム

公開日:2020.09.03

大正末期〜昭和の北山田から 第50回
都筑区の歴史を紐解く
文・絵 男全(おまた)冨雄(『望郷』から引用)

戦後【2】



 乳牛が増え、六頭になった時も、トマト、ナスなどの野菜を栽培し、稲作も四反五畝(せ)耕していた。全部夫婦で働いていたが、乳牛三十五頭の時に、農協から三百万円借入して鉄筋牛舎を建てた。その当時、お金を借りることは一番恥ずかしいこととしか受けとめてもらえなかった。男全さんところでは借金したと、偏見の目を強く感じた。



 借入金をしてからの労働は地獄だった。朝、目を覚ませば一分の暇もなく働かねば一日の仕事が消化できなかった。体調が悪くても、薬を飲みながら、注射を打ちながらも、休むことができなかった。無理がたたり肝臓を悪くしてしまい、医者から静養するように注意されたが、交替要員がいないので、牛小屋の角に布団を敷き休みながら乳搾りをした。



 私は長男だから仕方ないが、妻には気の毒だった。一生懸命尽くしてくれた。私より倍以上の過酷な労働であった。



 先にも述べたが、朝四時に遅れると大変、乳の出荷時間に間に合わなくなる。妻はお勝手をやりながら牛舎の手伝いをした。牛乳は六時までに集荷所へ車に積んで行き、そのまま、東京馬込町までモヤシ粕を取りに行き、帰ってきてから朝飯を食べ、モヤシ粕を降ろし、すぐに農作業。お昼は牛に食べさせ、乳を搾り、一日食べる牧草を刈ってから、昼飯。二時また農作業。夕方、牛に食べさせて、掃除をして九時に夕飯を食べ、十時より搾乳。十一時に終わり風呂に入り休むのはいつも十二時を過ぎていた。



 睡眠時間四時間、三六五日、いっ時も休みなくよく続いたと思う。



 牛のお産は大変だった。酪農仲間が手伝いにきてくれた。特に子宮脱には苦労した。

 

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