大正末期〜昭和の北山田から 第66回 都筑区の歴史を紐解く 文・絵 男全(おまた)冨雄(『望郷』から引用)
中川中学五十周年に思う
平成八年十一月二日、中川中学体育館で五十周年記念祝賀会が地域の代表、同窓会により開催された。挨拶のなかで五十年の歩みを大勢の方が話されたが、現在の中学敷地は戦前は小学校の農業実習地として使われ、戦時中は青年学校の厳しい軍事訓練用地でもあった。早渕川土手との手旗信号、丘を下り川まで農道を泥だらけの匍匐前進(ほふくぜんしん)、防具も汗を通すほどしごかれた銃剣術などが、校庭に立つと昨日のようによみがえる。二十二年に初めてPTAができ、南山田の栗原氏が会長になり、父が副会長で、予算もないとき校舎を建てなければならないと、牛久保の陸軍防空部隊の兵舎の払い下げを受けた。地域の市川大工や鳶(とび)職を中心に解体、牛車で運搬、奉仕で仮校舎が建設された。
教育振興会(農協組合長)伊藤さんの存在が大きかった。
故郷
”故郷は遠くにありて思うもの”と言われるが、北山田のように一部を残して、地下十数メートル下に故郷が埋まってしまったのでは、すでに故郷はない。
視界から消えると懐かしさは増す。それも我々の年代だけの郷愁(きょうしゅう)かもしれない。
人が生きるには環境がよかった。
きれいな小川、四季折々の山野の衣替え、人情豊かなお付き合い。近所に不幸があれば家族の身になって心配し面倒を見、お祝い事があれば我ことのように喜び幾日も手伝い杯を重ねた。
=続く。
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