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都筑区 社会

公開日:2025.08.14

屋根を貫いた焼夷弾
新栄町・青木かな子さん

 現在85歳の青木かな子さんは1940年、長崎県佐世保市で5人きょうだいの3番目、次女として生まれた。

 海軍技師だった父の転勤で、佐世保から平塚の火薬工廠を経て、広島の呉に移り住む。父に出征の知らせが届いたのは44年の秋。「見送りのため、軍服を着た父と一緒に港へ向かう長い石段を歩いた。階段を一段降りるたび、腰にぶら下がっていたサーベルがぶつかる小さく鋭い音がしたのを今でも覚えている」。それが父との最後の思い出になった。その年の12月30日、空の骨壺を届けてくれた人から、フィリピンのマニラで帰らぬ人になったと知らされた。

 「お国のための名誉の戦死」を遂げた父のために、泣くことも許されず、毅然としていなければいけなかった時勢。「みじめな正月だった」と悲し気に振り返る。

 父の出征後に生まれた四女を含め母子6人は、母の実家の横須賀へ身を寄せることに。「凍えるほど寒かった」2月、汽車に乗って呉を離れた。「車内も寒く、窓に張った薄い氷を玩具で削って外の景色を眺めた。友人が持たせてくれた大きな玉子焼きを皆で食べた」ことなどを今でも覚えている。

「お芋は嫌い」

 横須賀では海軍施設のドックとガスタンクの威容さに度肝を抜かれた。「軍人一家だった」という横須賀の実家には、母のきょうだい一家も逃れてきており、多い時には30人ほどが身を寄せていた。

 東京や横浜に比べると大規模ではなかったものの横須賀も空襲の被害を受けている。焼夷弾が屋根を突き破り、畳廊下に着弾。すぐに家人が手当てをして、幸いにも火が燃え広がらず、事なきを得た。「今思うとぞっとする」

 母は固い生地のリュックを背負い、農家を戸別訪問し、着物などをジャガイモやカボチャなど食べ物と交換してもらった。「とにかく食べるものがなく、カボチャは種まで食べた。ひもじかった」と述懐。当時の反動で「今でもお芋は嫌い」と苦笑いする。

 8月15日。大人たちが電波の悪いラジオの前に集まり、耳を傾けていた。夏空を見上げ青木さんは「B29の飛ぶ音がせず『なんて静かな空なんだろう』と思った」という。戦争が終わったことを知り、素直に喜んだ。

 未亡人となった母が教師の職を得て、定期収入が入るようになったのは、終戦から5年が経過した頃だった。

 結婚し、2人の子どもに恵まれたが、戦争の話は学校の課題として孫に請われるまで、一切しなかった。孫には戦争経験者として「世界のすべての国々が戦争を放棄すれば、平和が実現するのではないか」とのメッセージを伝えている。

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