都筑区 社会
公開日:2025.08.14
葡萄の匂いの防弾ガラス
川和町・平林功男さん
1934年生まれの平林功男さんは、東京都大田区出身で現在90歳。7人きょうだいの3男。父は軍関係の仕事をしていおり、「軍功の『功』の字を付けたので、軍人にしたかったんじゃないのかな」と斟酌する。
戦火が激しくなった1944年6月、静岡県の磐田村(現磐田市)に学童疎開した。小学6年生を班長に4年生まで約30人がまとまって親元を離れた疎開。平林さんは「楽しかった」と振り返る。
寺の本堂で寝泊まりし、裏の学校へ通った。「木造の校舎だったがピカピカに輝いていた」という。磐田村は農業も盛んで食べ物も豊富。「人の気持ちも鷹揚で豊かだった」。砂糖がない時代だったが、村では当時サトウキビの栽培をしており、「おやつ代わりにしゃぶっていた」と懐かしむ。授業の後はチャンバラごっこで夜遅くまで遊ぶ毎日。「墜落した米軍機の防弾ガラスの破片をこするとぶどう味のドロップの匂いがした」と懐かしそうに手をこする真似をした。
磐田には戦闘機のパイロットを養成する飛行場があり、通称「赤とんぼ」と呼ばれた練習機が、朝から晩まで飛行訓練をしており、それを眺めるのも日課だった。飛行場では、子どもは「日本の将来の宝」として見学や戦闘機への搭乗、お菓子を振舞ってくれることもあった。
2度目の疎開
45年に入ると浜松の飛行場が標的になり、艦載機からの攻撃が激しくなった。麦踏みの手伝いをしていた時、米軍機が「地面に突き刺さるのでは」と思うほどの低空を飛行し、薬きょうをバラバラと落としながら通り過ぎていったことを強烈に覚えている。
戦況の変化に伴い、学童疎開は再考を余儀なくされ、平林さんらは一度東京へ戻ることに。しかし、東京へ戻ると家は焼け、裏の小学校も燃えてなくなっていた。「疎開先に居てまったく思ってもいなかった。家族はどれほど怖い思いをしていたのか」と申し訳なさそうに述懐する。
家族は近所の家を間借りして暮らしており、親戚のいる長野へ疎開することが決まった。その間も矢継ぎ早に空襲に見舞われる。磐田から戻ってから3度目の空襲のあった翌日、長野へ向かうため最寄りの蒲田駅へ向かったが駅は全焼。ただ電車は奇跡的に動いており、蒲田から東神奈川、八王子を経て、長野へ向かうことが出来た。
長野では、手旗信号や伝令、足にゲートルを巻く訓練などを行い、雑草の中から食べられる草を探すことも教わった。戦況の悪化を肌で感じる毎日だった。終戦は4カ月後だった。
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