戸塚区版 掲載号:2013年1月24日号
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戦中・戦後を生き抜いた戸塚区民が語る 語り継ぐ戦争の記憶 【1】 ―伐採された柏尾川の桜―

「戦争が始まっても恐怖はなかった」と阪間さん
「戦争が始まっても恐怖はなかった」と阪間さん

 「帝国陸海軍は今8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」─。


 1941年12月8日、暮れも押し迫った寒い朝に勇ましい軍艦マーチとともにラジオから流れた臨時ニュースに、戸塚尋常高等小学校(現・戸塚小)2年生だった戸塚町在住の阪間馨さん(79歳)は胸をはずませた。


 「家族もみんな喜んだ。学校でも校長から開戦が伝えられたし、級友ともその話題一色。日本が負けるなんて教わっていないから、恐怖心なんてない。お祝いみたいなもんだった」


 開戦後しばらくは日常生活に大きな変化はなし。衣料や食料は国からの配給制になったものの、「そんなにひもじい思いはしたことがなかった」


 しかし、3年生に進級してまもなく行われた運動会のこと。男子は木刀、女子はなぎなたを振る競技の最中に空襲警報が鳴り響く。「空襲警報を聞いたのはあれが初めて。そう簡単に攻めてこられるとは思ってなかったから、まさに青天のへきれきだった」。途中で中止となり、生徒は帰宅。被害はなかったが、日本の勝利を信じて疑うことのなかった阪間少年が受けたショックは大きかった。


桜並木も戦争の犠牲に


 春には戸塚駅から大船駅まで柏尾川にアーチをかけるように咲き誇っていた桜並木。「戦争が始まる前にお花見に行った時、出会った金髪の外人にお菓子をもらったことがある。横浜は海外の観光客も多かったから。祖母に『あれは異人さんだよ』と教えてもらった」


 今も鮮明に記憶に残る楽しい春のひととき。だが、戦争の暗い影は桜並木にも押し寄せる。薪や下駄の材料にするため、桜が伐採されたのだ。失われたのどかな川沿いの風景。それでも、「悲しいと言っている雰囲気じゃない。お国のため、まずは戦争、戦争だった」


 戦況も厳しさを増した45年春、戸塚の街に爆撃音が響く。「軍需工場に指定されていた日立の工場が夜間に焼夷弾の攻撃を受け、周囲の家も数軒焼けた」。工場と同じ町内会にあった自宅の庭にも落ちてきた焼夷弾の残骸。破片には毒があるという噂が広がり、父・兼松さんが鳶口でまとめて処分した。「あの頃は、早く怖い目にあわないようになりたいと思い始めていた」


 そして迎えた終戦。学校の教室は戦時中、陸海軍の機材置き場と化しており、また疎開していた一部の児童は食料の問題から転入制限を受けてすぐ自宅へ戻ることができず、ようやく戦前の日常を取り戻したのは年が明けてからだった。


平和の証を守る日々


 52年に柏尾川右岸に植樹され、すでに老齢期を迎えている桜の維持管理にあたるボランティア団体「戸塚桜セーバー」で、5年前の発足時から会長を務める。「昔のような桜のトンネルのようにはいかないけれど、今より少しでもベターな状態にしたい」。平和の証だった桜並木。傘寿を目前に控えた今もなお、その保護に精を出し続ける。


※戦争体験の声をお寄せ下さい。TEL.045・824・6800

戦後70年 語り継ぐ戦争の記憶

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