1945年4月15日夜。川崎市の多摩川にほど近い旭町国民学校の6年生だった山田シゲさん(81歳・戸塚町在住)は、街に響く空襲警報のサイレンを聞く――。
「鳴らない夜なんてなかった。解除になっても、また鳴るの繰り返し」。もう慣れっこになっていたサイレンの音。だが、その晩は違った。川崎の上空には約200機におよぶB29の大編隊が押し寄せていたのだ。
「早く逃げなさい!」。いつもと違う母の剣幕に押されるように妹の手を引き家を飛び出すと、道は大勢の人で隙間もないほど。行く先も分からぬまま人の流れに沿って走る。途中、慌てて履いてきた母の下駄は脱げ、足に釘が刺さった。妹ともはぐれた。だが、それでもひたすらに逃げた。
真夜中にもかかわらず、辺りは照明弾で昼間のよう。煙と熱風に包まれるなか、逃げ惑う市民をあざ笑うかのように敵機が背後から低空で忍び寄り機銃掃射を浴びせた。「頭を下げろ!」「離れちゃダメだぞ」。見ず知らずの人たちに励まされ、懸命に走り続けた。
気付くと多摩川にかかる六郷橋も渡り、立っていたのは東京の蒲田あたり。夜が明けると、川の向こうに見える川崎は一面焼け野原。家族の全滅を覚悟した。
「人間はこんなにもたやすく黒焦げになってしまうのか」。顔も性別も分からないほど真っ黒な焼死体が転がるなか、自宅があったであろう方角を目指した。
どれ位歩いただろう。焼け野原に立つ男性の姿が目に入った。父だった。髪の毛が焼け縮れ、全身すすで真っ黒になった娘に、「お前よく助かったな」と泣いていた。家は失ったが、幸運にも別々に逃げた家族は全員無事だった。
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あれから68年。壮絶な記憶はいまだに鮮明だ。「罪もない人たちが最期まで恐怖に脅えて亡くなった。身元すら分からない遺体もたくさん。孫たちにこんな想いは絶対させたくない」
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